側近のハリー・モニバ副大統領など閣僚からも辞任を勧められ、もはやリベリア国内に事態を打開できる要素は存在しなかった。ドウはアメリカが彼の身柄を保証してくれれば、自分はすぐにでも大統領を辞任してリベリア軍内の子飼いの軍人とともに故郷であるグランドゲデ郡へ帰還するとして、モンロビアにあるアメリカ大使館に協力を懇願するが、ドウ政権崩壊はもはや避けられないと見ていたアメリカ政府に断られてしまう。
アメリカの介入が見込めなくなった以上、ドウの最後の頼みは西アフリカ諸国経済共同体傘下の軍事組織で、彼と親交のあるナイジェリアのイブラヒム・ババンギダが大きな影響力を持つ西アフリカ諸国経済共同体監視団(ECOMOG)であった。ドウはイスラエルで訓練を受けていた選りすぐりの護衛90人を連れ、大統領官邸からモンロビア郊外のECOMOGの駐屯地に向かった。そこで彼はINPFLと講和し戦争を終わらせたいとして、ECOMOGの参謀長にジョンソンとの仲介を求めた。要請を受けたECOMOGはINPFLにドウが護衛と共にECOMOGの駐屯地に来ていること、そして彼の主張を伝達した。ジョンソンは自らもドウと同じ考えであり、戦争を終わらせる為今すぐにでもドウと話し合いたいとECOMOGに返答した。しかし、これはドウを騙し討ちにするための罠であった。
そんな事を知る由もないドウはジョンソンの回答に満足し、ECOMOGの駐屯地でジョンソンが来るのを待った。一方ジョンソンはドウを捕らえる為、20人程の兵士をECOMOGの駐屯地に送り込んだ。ECOMOGの駐屯地には武器を持って入る事は禁止されていたため、ジープに武器を隠して駐屯地に侵入してきたINPFL兵たちは、まず司令部でドウの護衛を皆殺しにし(彼らはECOMOGの指示に素直に従い、武器を駐屯地の入り口に置いていた為、丸腰であった。なお、ECOMOGの兵士は無事だった)、司令部内部へ乗り込んだ。ECOMOGの司令官であったガーナ軍のアーノルド・クアイノー将軍は、かかる事態にも抵抗することなくドウをINPFLにあっさり引き渡した。実際には、ECOMOGでは上記の理由からコートジボワールとブルキナファソがドウ打倒のためにテーラーを支援するなど、ドウの期待に反して一致した行動をとれていなかったのである。 ジョンソンの策略にまんまと引っ掛かったうえ、ECOMOGにも見捨てられたドウは、ジョンソンが待つINPFLの司令部に連行され、その日のうちにリンチにかけられた。上半身裸で後ろ手に縛られたまま、銃で膝を撃たれたドウは、何でも言う事を聞くからせめて痛む手錠を緩めてくれとジョンソンに訴えるが、ジョンソンはドウの銀行口座を教えろと迫った。最初は口を割ろうとしなかったドウだったが、最終的に教えようとしたところで、しびれを切らしたジョンソンは「お前は私と話をしたいというのか?誰が悪魔などと話をするか」とドウを罵倒し、耳を切り落とすよう、部下に指示した。体を踏みつけられたうえ、軍用ナイフで耳を切り取られたドウは悲鳴を上げ、INPFLの兵士はさらに踏みつけたり蹴りを入れるなど苛烈な拷問を行った。その後ドウは外に連れ出され、火で炙った自分の耳を食べるよう強いられた。ついには手の指や鼻や舌なども切りとられ、血まみれとなったドウは最終的に銃殺刑に処された。その後、ドウの遺体はモンロビアの中心街で晒されたのち、集団墓地へ投げ込まれた[6]。 ドウの死後、INPFLによりビデオ撮影されたドウへの拷問と処刑を映した映像が世界中に流出した。 ドウを倒したジョンソンは臨時大統領を宣言したが、テーラーと大統領の座を争っている間に、野党からなる国民統合暫定政府がエーモス・ソーヤーを暫定大統領に指名した。 その後、ジョンソンは虐殺行為などがもとで支持を失ったためINPFLを解散させたのち亡命、1997年にドウの遺族と和解した。 2008年、ドウの夫人ナンシー・ドウ(Nancy B.Doe)は、運輸大臣にドウの従兄弟ジャクソン・E・ドウが任命された事を批判し、エレン・ジョンソン・サーリーフ大統領を批判した。ジャクソン・E・ドウとナンシー・ドウはドウ殺害後の、ドウ個人の銀行口座165,000ドルなどの財産を巡って対立した。ナンシー夫人はドウが殺された時、ジャクソン・E・ドウはドウの副執事に自分はドウの親戚だと主張し、ドウの遺産などの重要書類を含むスーツケースを奪い取ったが、ドウが残した財産は夫人である自分が受け取る権利があるとしてジャクソン・E・ドウを告訴すると述べた。 弟チェイはリベリア和解民主連合(LURD)のリーダーを務めていたが、2004年アメリカ合衆国デラウェア州で脳障害のため死亡している。 ペインズヴィル
最期
その他
脚注.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、サミュエル・ドウに関連するカテゴリがあります。[脚注の使い方]^ Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 title は必須です。“{{{title}}}”. dx.doi.org. 2023年7月27日閲覧。
^ 『平成3年版(第35号)外交青書 わが外交の近況』1991年12月、外務省、P182。
^ Wallace, Susan Wallace (2001-05-10). Summary Report DOE Grant No. FG02-88ER60742. Final Report, December 1, 1998 - November 30, 1999. https://doi.org/10.2172/803731.
^ ⇒Around the World; Liberia Executes Four Charged in Plot on Doe, ニューヨーク・タイムス, 1981年8月15日
^ ⇒English as a Global Language ~ Liberia ~(日本語),2010-06-07閲覧。
^ ⇒Samuel Doe、Find a Grave、2015年11月18日閲覧
表
話
編
歴
リベリア共和国大統領
ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ1848-1856
スティーブン・アレン・ベンソン 1856-1864
ダニエル・バシーア・ワーナー 1864-1868
ジェームズ・スプリッグズ・ペイン 1868-1870
エドワード・ジェームズ・ロイ 1870-1871
ジェームズ・スキーヴリング・スミス 1871-1872
ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ 1872-1876
ジェームズ・スプリッグズ・ペイン 1876-1878
アンソニー・W・ガーディナー 1878-1883
アルフレッド・F・ラッセル 1883-1884
ヒラリー・R・W・ジョンソン 1884-1892
ジョセフ・ジェームズ・チーズマン 1892-1896
ウィリアム・D・コールマン 1896-1900
ギャレットソン・W・ギブソン 1900-1904
アーサー・バークレー 1904-1912
ダニエル・E・ハワード 1912-1920
チャールズ・D・B・キング 1920-1930
エドウィン・バークレー 1930-1944
ウィリアム・タブマン 1944-1971
ウィリアム・R・トルバート 1971-1980
サミュエル・ドウ 1984-1990
チャールズ・テイラー 1997-2003
モーゼス・ブラ 2003
エレン・ジョンソン・サーリーフ 2006-2018
ジョージ・ウェア 2018-2024
ジョセフ・ボアカイ 2024-
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