サマンサ・スミス
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サマンサはテッド・コペル[10]ジョニー・カーソンといった米国の大物ニュースキャスターや司会者からインタビューされ、アメリカの看板ニュース番組に連日登場した。

1983年7月7日にサマンサと両親はモスクワへ旅立ち、アンドロポフの招待客として2週間を過ごした。滞在期間中はモスクワ、レニングラード、及びクリミア半島のグルズフ(英語版)にあるソ連の先駆的な年少者向けキャンプであるアルテク(英語版)を訪問した。

サマンサは後の著書にて、自分と両親はレニングラードでの友好的な歓迎や人々から贈られたプレゼントに感激したと書いている。モスクワの記者会見で彼女はロシア人が「我々と変わらない」[11] と話している。

アルテクキャンプでは、予め用意されていた高級な部屋で宿泊するのを断り、他のソ連の子供たちと同じ部屋に滞在することを選択した。意思疎通をしやすいように英語が上手な先生や子供たちが彼女と同じ宿泊棟に移るといった配慮がなされた。サマンサは9人の女子部屋に宿泊し、水泳、ロシア語講座、ロシア民謡や踊り等を楽しんだ。この間に彼女は英語が達者でレニングラード出身のナターシャ・カシリーナをはじめ、多くの友人を得ることができた。

しかし、アンドロポフ本人はサマンサと直接会うことができず[12]、代わりに電話で直接言葉を交わした。当時アンドロポフは体調を著しく崩しており、暫く公の場に登場していなかったことが、後に判明した[13]。アンドロポフはサマンサがソ連を訪問する少し前の1983年6月にソ連の国家元首である最高会議幹部会議長に選出されたが、その受諾演説を行う際は演壇まで歩ける状態に無かったためやむを得ず自席で行っていた他、西ドイツ(当時)のヘルムート・コール首相との首脳会談の際も護衛の補助なしに車から降りることすらままならなかったという。結局、アンドロポフはサマンサがソ連を訪問した約7か月後の1984年2月9日、腎不全のため死去した。

また、サマンサはロシア人で世界初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワとも電話で会話した。しかし、その時のサマンサは相手が誰だかよく理解しておらず、簡単な会話だけですぐに電話を切ってしまった[14]

メディアはサマンサに密着取材し、彼女の滞在期間中と後まで、彼女の写真や記事はソ連の主要新聞/雑誌によってと連日取り上げられた。このため、サマンサはソ連市民からも広く知られるようになり、その認知も好感的なものに終始した。他方、アメリカではイベントの真偽に対し疑いが浮上し、人々の中には「アメリカ流のやらせ広報活動」と捉える動きもあった[15]

1983年7月22日に帰国したサマンサは、メイン州の人々から薔薇にレッドカーペットリムジンで迎えられる[16]ほど、彼女の人気は祖国で熱狂的なものとなっていた。一方で批判的な人々は、サマンサ本人にその意思がなくとも、知らずのうちにソ連のプロパガンダの道具(レーニンはかつて、彼女らのような広告塔的存在を「役に立つ愚か者」と評したことがある)として利用されていると主張していた[16][17]

1983年12月には、引き続き「最年少親善大使」としてサマンサは日本に招待され[18]、日本の中曽根康弘総理(当時)と会い、神戸で開催された国際子供シンポジウムに参加した。同シンポジウムのスピーチの中でサマンサは、毎年2週間ずつ米ソの代表者が孫を交換することを提案し、そうすれば大統領が「孫が訪問している国を攻撃したくなくなるだろう」と主張した[19]

彼女のソ連訪問は他の子供親善大使を誘発[20]し、ソ連から11歳のカーチャ・リチョワがアメリカを訪問した[21]

この後、サマンサは『ソビエト連邦への冒険』という本を著した。

サマンサは引き続き有名人としての役割を果たしていった。1984年にはディズニー・チャンネルの子供向け特別番組『サマンサ・スミスがワシントンへ行く?大統領選挙84?』のホストを務めた[22]。この番組で彼女はジョージ・マクガバーンやジェッシー・ジャクソンといった1984年大統領選挙の候補者にインタビューを実施した。しかしながら、彼女の名声は同時にストーカーを引きつけてしまった。後に女優レベッカ・シェイファーを殺害するに至ったストーカーのロバート・ジョン・バルドは一時スミスをストーキングしていた[23]

1985年には、サマンサはテレビ連続ドラマ「ライム・ストリート」に俳優ロバート・ワグナーと共に主演した[24][25]
死去

事故自体の詳細については英語版のBar Harbor Airlines Flight 1808を参照

1985年8月25日、「ライム・ストリート」の撮影を終えたサマンサは父アーサーと一緒にバー・ハーバー航空1808便で自宅に戻る途中だった。同機はルイストン-オーバーン地域空港(英語版)への着陸時、滑走路直前の木々に激突し、搭乗客全6名及びクルー2名が死亡した[26]

この事故について多くの憶測・推測が飛び交った。ソ連では本件が事故ではなく故意に墜落させられたものではないかという記事が出回った[27][28]

事故調査が行われ、正式な調査報告書は不正・故意の可能性を退けた。同報告書によると、事故は22:05頃、空港の1.6Km南西地点で発生。「(墜落時の)進入角が比較的鋭角であり、機体姿勢(飛行機の水平度、進行方向等)と墜落時のスピードの関係が生存者がいない原因」だとした[29]。報告書によると主な原因は雨が降っており、パイロットの経験が浅かったためであり、また、同様の事故は起こり得るものであるが、同様の事故による致死率は通常低いものであり、着陸レーダーが故障したものと思われる、としている。


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