サマリア人
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もっとも、ユダヤ人たちもサマリア人を完全に異民族として見ていたわけではなく、前述のヨセフスの『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』でもユダヤ人の領域を上げる際にサマリアが入っていたり[10]、ラビたちもタルムードでサマリア人を異教徒扱いにするかユダヤ人に準ずるかで意見が分かれたり[11]、キリスト教の『マタイの福音書』にもイエスの弟子たち(主にガリラヤ在住のユダヤ人)が、サマリア人を異民族に入れるのか否なのか迷うらしい描写がある[12]

これ以外にも新約聖書にはしばしば登場し、イエスの福音を受け入れたものも多かった[13]。また、イエスも彼等を迫害の対象とはせず、「隣人」として受け入れていた[14]

ローマ帝国時代の37年、ユダヤ総督のポンテラス・ピラトゥス(ピラト)が、ゲリジム山に臨時の礼拝に来たサマリア人を暴動目的の集結と思い、軍を用いて強引に鎮圧させ死傷者多数発生。後日サマリア人の指導者が上記の虐殺は冤罪だとピラトゥスの上司のシリア総督に訴えた結果、ピラトゥスは更迭された[15]

ユダヤ総督がクマノスの時代[16]、エルサレムへ向かうガリラヤ人複数人がサマリアのギナエという村で殺害される事件が発生、クマノス総督の対応が悪いと不満を持ったユダヤ人たちとサマリア人たちとの間に抗争が起き、最終的にクマノスが流刑になるほどの問題となる[17]

66年ユダヤ戦争勃発でシケム近郊のサマリア人たちも蜂起し、ゲリジム山に集まるがウェスパシアヌス将軍率いるローマ軍に鎮圧された[18]

東ローマ帝国ゼノン皇帝の時代、サマリア人が反乱を起こすが鎮圧され、彼らのシナゴーグがキリスト教会に改変される[19]

現在、ユダヤ人たちとは和睦が成立し、ユダヤ教徒の一派として認められている。

サマリア人の人口は、長年の迫害や同族内での結婚が続いた結果、20世紀初頭には150名程度の集団になってしまった。その後ユダヤ人女性との通婚などで、2007年には700名余りに回復したものの、依然厳しい状況は続いている。特に男性の結婚難が深刻で、近年ではロシア東欧に新婦となる女性を求める動きが見られるが、伝統的なサマリアの習俗への服従等が足かせとなって、思うようにはいっていないようである。

さらに、ヨルダン川西岸地区の帰趨によっては、サマリア人は聖地を捨ててユダヤ人に同化するか、それともゲリジム山に逼塞して平和を待つかという、厳しい選択を迫られることになる。「善きサマリア人」
善きサマリア人詳細は「善きサマリア人のたとえ」を参照
逸話の内容

有名なイエスの説法に、「善きサマリア人」の逸話がある。ある律法の専門家が立ち上がり、彼を試そうとして言った、「先生、わたしは何をすれば永遠の命を受け継げるのでしょうか」。
イエスは彼に言った、「律法には何と書かれているか。あなたはそれをどう読んでいるのか」。
彼は答えた、「あなたは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神なる主を愛さなければならない[20]。そして、隣人を自分自身のように愛さなければならない[21]。」
イエスは彼に言った、「あなたは正しく答えた。それを行ないなさい。そうすれば生きるだろう」。
しかし彼は、自分を正当化したいと思って、イエスに答えた、「わたしの隣人とはだれですか」。
イエスは答えた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗たちの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ、殴りつけ、半殺しにして去って行った。たまたまある祭司がその道を下って来た。彼を見ると、反対側を通って行ってしまった。同じように一人のレビ人も、その場所に来て、彼を見ると、反対側を通って行ってしまった。ところが、旅行していたあるサマリア人が、彼のところにやって来た。彼を見ると、哀れみ[22]に動かされ、彼に近づき、その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやった。彼を自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、世話をした。次の日、出発するとき、2デナリオンを取り出してそこの主人に渡して、言った、『この人の世話をして欲しい。何でもこれ以外の出費があれば、わたしが戻って来たときに返金するから』。さて、あなたは、この三人のうちのだれが、強盗たちの手中に落ちた人の隣人になったと思うか」。
彼は言った、「その人にあわれみを示した者です」。
するとイエスは彼に言った、「行って、同じようにしなさい」。 ? 『ルカによる福音書』第10章第26?37節

祭司やレビ人が見て見ぬふりをしたのは、両者は祭礼にかかわる人物であり、人命救助より祭礼を優先したとする説。また、同じく祭礼にかかわる人物には「死体に触れてはならない」禁忌があり、被害者がもし死んでいたならば、禁忌に反することになることを恐れたため[23]という説がある。

このことから、「善きサマリア人」とは、「そのことによって、自分が不利益を被るリスクを顧みず人助けをする行為」を指すようになった。
年表
有名なサマリア人

ユリアヌス・ベン・サバル
 Julianus ben Sabar

ババ・ラッバー Baba Rabba

アンドロニクス・ベン・メシュッラム Andronicus ben Meshullam

シモン・マグス Simon Magus

ソフィー・ツェダカ Sofi Tsedaka(イスラエルの女優、歌手)

サマリア人協会

サマリア人協会という団体があり、メンタルヘルスをサポートするイギリスチャリティー団体として活動を行っている[24]
脚注^ a b c 臼杵陽・鈴木啓之『パレスチナを知るための60章』明石書店、2016年4月10日、59頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-7503-4332-7。 
^ 早尾貴紀 (2019年12月3日). “「パレスチナの民族浄化」の完成形態としての「ユダヤ人の国民国家法」”. Webあかし. 明石書店. 2021年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月28日閲覧。
^ 当時捕囚は被征服民族を支配する上で一般的な方法だった。
^ フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』第13巻255-256節。なお、神殿なきあともゲリジム山はサマリア人の聖地として礼拝の場となった。
^ 『列王記』下17:29-41など
^ 『マカバイ記2』6:2-3で「ゲリジム山の神殿で地元の人の要望でゼウス信仰が行われた」、またタルムードにも「サマリア人が偶像を崇めている」という文章があるのだが、これは「都市の方のサマリア(マケドニア王国軍によって植民が行われ、ヘレニズム文化の影響が強かった。)の住人」と民族としてのサマリア人(シケムを中心に済むようになった)の混同の可能性がある(E・シェーラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』、古川陽・安達かおり・馬場幸栄訳、株式会社教文館、2014年、第3巻、P46)。
^ E・シェーラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』、古川陽 安達かおり 馬場幸栄訳、株式会社教文館、2014年、第3巻、P28-30
^ 筆者のヨセフスはサマリア人について同書の278-279節で「イスラエルの全住民がメディアペルシアに連れていかれ、代わりにクタという土地から連れてきた民族を定住させた。」、288-290節で「クタ人は祭司から教えられた後は熱心にいと高き神(注:ヤハウェのこと)に奉仕した」「クタ人はギリシャ人がサマリア人と呼ばれている人達。」という記述をしており、サマリア人を「イスラエル人とは混血も何もそもそも無関係だったが、教えを受けてからは我々と同じ慣習を現在に至るまで守るようになった人たち」と認識していたようである。


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