サバ島は、カリブ海に所在するオランダ領の6つの島々(旧オランダ領アンティル)のうち、小アンティル諸島北部のリーワード諸島に属するいわゆるSSS諸島の一つである。
シント・マールテン島の南西、シント・ユースタティウス島の北西に位置する。 サバ島の陸地面積は13 km2で、これはオランダ領アンティルを構成していた島(自治体)の中では最も小さい。シーナリー山 (887 m)[1]を中心に形成された急峻な火山島であり、島の外周はほとんどが断崖絶壁となっている。シーナリー山は、オランダ本国の最高峰であり、オランダ本国および3つの自治領で構成されるオランダ王国の最高峰である。 人口は約1400人。主要な集落であるザ・ボトム(The Bottom)は、島の南西寄り内陸部、標高260mあまりの火山原に位置し、島の人口の約3分の1が生活する。ザ・ボトムのほかに、ウィンドワードサイド (Windwardside
地勢
主要な集落
サバ島にはカリブ族もしくはアラワク族が居住していた痕跡がある。
1493年11月13日、クリストファー・コロンブスによってサバ島は「発見」されたが、コロンブスはこの断崖に囲まれた島へは上陸しなかった。その後、1595年にイギリスの海軍提督フランシス・ドレークが上陸している。
1620年には2人のオランダ人がサバ島に上陸した。1632年、難破したイギリス人が島に上陸しているが、救助された彼らは「無人島を発見した」と主張している。1635年にはフランスがサバ島の領有を主張した。1640年、シント・ユースタティウス駐在のオランダの総督は、この島にオランダ人を派遣し、オランダ西インド会社の植民地とした。1664年、イギリスの海賊ヘンリー・モーガンの一族であるトーマス・モーガンが島を占拠し、オランダ人たちはシント・マールテン島に追放された。この島は、その後もイギリス・フランス・オランダの激しい争奪の対象となり、持ち主をめまぐるしく変えた。
1600年代、この島はジャマイカの海賊たちにとって格好の隠れ家となった。この島を拠点としたサバ海賊で最も有名な人物は、「死人に口なし」 Dead Men Tell No Tales という言葉を残したハイラム・ビークス(Hiram Beakes)である。こうした「好ましからぬ」人々はイギリスによって取り締まられ、やがてまっとうな航海や交易が島の重要な生業になっていった。17?18世紀にかけてのこの島の主要な産業は砂糖とラム酒の製造であり、のちにはロブスターをはじめとする漁業も行われるようになった。 1816年、この島は正式にオランダ領として確定した。1818年には植民地「シント・ユースタティウスおよび属島」(以下「シント・ユースタティウス植民地」)が設定され、サバ島はシント・マールテン島とともにオラニエスタッドのシント・ユースタティウス総督の管轄下に置かれた。その後「西インド植民地」の一部となった時代(1828年 - 1845年)を経て、1845年に「キュラソー植民地」の一部となり、ウィレムスタットのキュラソー総督の管轄下に入ることになった。 19世紀半ばにはレース編みの技術がもたらされ、島の女たちがつくるサバ・レースは島の重要な輸出品になった。 1954年に、キュラソー植民地の自治権が拡張され、オランダの自治領「オランダ領アンティル」(以下「アンティル」)となった。アンティル構成各島では地理的な懸隔や経済的な格差などから、アンティルから離脱して単独の自治領として「独立」しようとする動きが活発であった。2010年10月10日にアンティルが解体されると、サバ島はオランダの特別自治体となった。 2001年に行われたオランダ領アンティルの国勢調査によると1,349人、 2004年の人口は1,424人であった。また、海外に多くの移民を送り出している。 島の住民はさまざまな民族の血を引いている。オランダ人や、イングランドのチャールズ1世によってカリブ海に追放されたアイルランド人・スコットランド人、ジャマイカから来た海賊、島での労働のために移入された黒人奴隷などがその祖先である。島民の家系をさかのぼれば、わずか数家族に行きつく。このため、島で使われている姓の種類は多くない。とくに人口の多い姓は Hassell と Johnson である。 宗教はキリスト教で、カトリックが最も多く、メソジスト系(プロテスタント系)のコミュニティもある。このほか、聖公会やセブンスデー・アドベンチスト教会、イスラム教、ユダヤ教の信者もいる。 公用語はオランダ語と英語。オランダ領であるが、島で話される第一の言語は英語である。これは19世紀以来、島の学校教育で英語とオランダ語が教えられたことの影響である。このほか、パピアメント語も話される。 サバ島には、サバ医科大学 (Saba University School of Medicine
19世紀以降
住民ウィンドワードサイド集落の街並み。
島の地形は急峻であり、農業を営むには制約があるため、伝統的にサバ島の人々は海へ向かい、水夫・航海者として生計を立ててきた。アメリカ海軍によい職を求めることも珍しいことではなく、入隊のために出生証明書の偽造も行われたこともしばしばあるという。1941年、真珠湾攻撃の際に戦死して海軍名誉勲章を授与されたエドウィン・J・ヒル兵曹長 (Edwin J. Hill
) (公的にはフィラデルフィアの生まれ)は、家族の証言によればサバ島の生まれである。サバ島は、ボネール島とともにオランダの特別自治体である。これにかつての特別自治体であったシント・ユースタティウス島を加えた3島は、総称してBES諸島(オランダ領カリブ)と呼ばれる。 島の重要な収入源は、サバ医科大学の学生が支払う授業料である。農業はイモ類などを栽培しており、ほとんど自給自足である。 サバ・レース(「スパニッシュ・ワーク」Spanish Work とも呼ばれる)は、島の特産手芸品であり、主要輸出品である。1870年代に、ベネズエラのカラカスの修道院に留学したMary Gertrude Hassell Johnsonがレース編みの技術を習得し、島に持ち帰って広めた。
経済・産業