サッダーム・フセイン
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1975年に自らが当時のパフラヴィー朝との間で締結したアルジェ合意で失ったシャットゥルアラブ川の領土的権利を回復し、欧米諸国やスンニ派アラブ諸国の脅威であるイラン・イスラーム体制を叩くことで、これらの国の支持と地域での主導権を握り、湾岸での盟主の地位を目指すというのがサッダームの戦略であった[7]。また、革命の前年1978年にバグダードで主催した首脳会議でアラブ連盟から追放したエジプトに代わってイラクをアラブの盟主にすることも画策していた[8]

また、サッダーム率いるバアス党政権は、イラン革命がイラク国内多数派のシーア派にも波及することを恐れていた。実際、1970年代には、南部を中心にアーヤトゥッラー・ムハンマド・バーキル・サドル(英語版)率いるシーア派勢力が、中央政府と対立していた。1980年4月には、ターリク・アズィーズ外相を狙った暗殺未遂事件が発生し、さらに同外相暗殺未遂事件で死亡したバアス党幹部の葬儀を狙った爆弾テロが起こり、事ここに到ってサッダームは、ムハンマド・バーキル・サドルを逮捕し、実妹と共に処刑した。

その間、イラン国境付近では散発的な軍事衝突が発生するようになり、緊張が高まった。1980年9月17日、サッダームはテレビカメラの前でアルジェ合意を破り捨てて[9]、同合意の破棄を宣言。9月22日、イラク空軍がイランの首都テヘランなど数か所を空爆とイラン領内への侵攻が開始され、イラン・イラク戦争が開戦した。

戦争を開始した理由は、イスラーム革命に対する予防措置であると同時に、革命の混乱から立ち直っていない今なら、イラクに有利な国境線を強要できると考えたからである。侵攻当初はイラクが優勢であったが、しだいに物量や兵力に勝るイランが反撃し、戦線は膠着状態に陥り、1981年6月にはイラン領内から軍を撤退させざるを得なかった。1986年にはイランがイラク領内に侵攻し、南部ファウ半島を占領されてしまう。

サッダームはイラン南部フーゼスターン州に住むアラブ人が同じ「アラブ人国家」であるイラクに味方すると思っていたが、逆にフーゼスターンに住むアラブ人たちは「侵略者」であるイラクに対して抵抗し、思惑は外れた。また、北部ではイランと同盟を組んだクルド人勢力が、中央政府に反旗を翻し、独立を目指して武装闘争を開始した。イラクと敵対していた隣国シリアは、イランを支持してシリアとイラクを結ぶ石油パイプラインを停止するなど、イラクを取り巻く状況は日増しに悪くなっていった。

こうした中、イラクは湾岸アラブ諸国に支援を求めた。湾岸諸国もイスラーム革命の防波堤の役割をしているイラクを支えるため経済援助を行った。また、湾岸諸国に石油利権を持つ先進国もイラクに援助を行った。アメリカイギリスフランスなどの西側大国、さらに国内に多くのムスリムを抱えていた社会主義国ソビエト連邦中華人民共和国のような東側の大国もイランからの「イスラーム革命」の波及を恐れてイラクを支援した。

ソ連(ロシア)、フランス、中国は1980年から1988年までイラクの武器輸入先の9割を占め[注釈 2][10]、後の石油食料交換プログラムでもこの3国はイラクから最もリベートを受けている。さらにイラクにはイタリアカナダブラジル南アフリカスイスチェコスロバキアチリも武器援助を行った。北朝鮮とはイランを支援したことを理由に1980年に国交断絶を行った[11][12]

また、「バビロン計画」としてカナダ人科学者のジェラルド・ブルに全長150m口径1mの非常に巨大な大砲を建設させていた。

サッダームは、イラン・イラク戦争が忘れられた戦争にならないように、戦争と先進国の利害を直接結びつけようとした。そのためにイラクは、1984年からペルシア湾を航行するタンカーを攻撃することによって、石油危機に怯える石油消費国を直接戦争に巻き込む戦術をとり始め、イランの主要石油積み出し港を攻撃した。この作戦が功を奏し、両国から攻撃されることを恐れたクウェートがアメリカにタンカーの護衛を求めた。これにより、アメリカの艦隊がペルシア湾に派遣され、英仏もタンカーの護衛に参加してタンカー戦争が起きたのであった[13]

当時、反米国家イランの影響力が中東全域に波及することを恐れたロナルド・レーガン政権は、イラクを支援するため、まず1982年に議会との協議抜きでイラクを「テロ支援国家」のリストから削除した。1983年12月19日には、ドナルド・ラムズフェルドを特使としてイラクに派遣し、サッダームと90分におよぶ会談を行った。

1984年にはイラクと国交を回復し、アメリカとの蜜月を築いた。1988年に至るまでサッダーム政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の援助や、ソ連製兵器情報の供与を条件に、中央情報局による情報提供を行ったとされ、後にアメリカ合衆国議会で追及される「イラクゲート」と呼ばれるフセイン政権に武器援助を行った疑惑(英語版)も起きた。だが、後に亡命したワフィーク・サーマッラーイー元軍事情報局副局長によると、サッダームは完全にはアメリカを信用しておらず、「アメリカ人を信じるな」という言葉を繰り返し述べていたという。

1987年には国連で即時停戦を求める安保理決議が採択。1988年にイランは停戦決議を受け入れた。イラクはアメリカを含む国際社会の助けで辛くも勝利した形となった。その1年後にはホメイニーが死去し、湾岸諸国と欧米が危惧した「イスラーム革命の波及」は阻止された形になった。そして、後に残ったのは世界第4位の軍事大国[14]と呼ばれるほど力をつけたイラクであった。
湾岸戦争詳細は「湾岸戦争」を参照

1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東最大の軍事大国の1つへと押し上げる一方で、かさんだ対外債務や財政悪化、物不足やインフレなど国内は深刻な経済状況にあった。また、サッダームの長男ウダイが大統領の使用人を殺害するという不祥事も発生した。

サッダームは政権に対する国民の不信が高まらないよう、「政治的自由化」を打ち出した。現体制を維持しつつ、限定的な民主化を推進して、国民の不満のガス抜きを行う狙いだった。バアス党を中心に、情報公開、複数政党制、憲法改正に関する特別委員会を設置し、大統領公選制などを盛り込んだ新憲法案が起草された[15]

政権が特に推進したのは情報公開であった。サッダームは各メディアに投書欄を充実させるよう命じた。だがそこに寄せられる政府批判は予想外に厳しいものであった。批判はサッダーム個人では無く、官僚批判の形で操作されていたが、失業戦後復興の遅れなど、ありとあらゆる分野に苦情が殺到した。さらに、ちょっとした情報公開でも体制崩壊に繋がりかねないと政権を恐れさせたのは、1989年に東欧各地で起こった民主化であった[16]

とりわけサッダームが衝撃を受けたのは、ルーマニアニコラエ・チャウシェスク大統領が、89年12月のルーマニア革命により政権の座を追われて処刑された出来事であった。サッダームとチャウシェスクは、非同盟諸国会議機構の中心的指導者として、互いに親密な関係にあったとされる[17]。そのため、サッダームはイラクの各治安機関にルーマニア革命の映像を見せ、同政権崩壊の過程を研究させている。これを機に「政治的自由化」の動きは失速し、民主化も頓挫したのであった[18]

その一方で、イラクの軍備は増強されていった。兵力は180万人に膨れ上がり、戦闘機の数も700機に上った。サッダームは、イランが停戦に応じたのはイラク軍の軍備増強、ミサイル兵器による攻撃などイランを力で追い詰めることが出来たからだと考えていた。軍事大国化こそ勝利の道であるという信念がサッダームに植え付けられ、そのことが戦後も軍備増強を続ける原因になったとされる[19]

1990年3月、英紙「オブザーバー」のイギリス系イラン人の記者が、イラクの化学兵器製造工場に潜入取材をしたとして、イギリス政府の懇願にもかかわらず処刑される事件が起きる。


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