監視だけでなく、市民に対する恣意的逮捕や拷問も日常的に行われた。アムネスティによるとサッダーム時代には107種類の拷問がイラク各地の刑務所で行われていたとしている。その拷問はわざと苦痛を感じさせて、障害を残すような極めて残忍な拷問である。ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告によるとサッダーム政権下で約29万人が失踪あるいは殺害されたと報告している。
イラク現政府は、「サッダーム・フセイン時代の恐怖展」を開き、拷問道具や犠牲者の遺品などを展示した[45][46]。 サッダームが大統領に就任すると、自身への崇拝が強化され、イラク国内には彼の巨大な彫刻、銅像、肖像画やポスターが飾られるようになった。それらを制作する専門の職人がいたほどであり、国民の人口よりサッダームの銅像やポスターの方が多いという笑い話が作られたほどである。サッダームに対する個人崇拝は、中東でも異例であり、突出していた。国営テレビは、毎日のようにサッダームを称える歌・詩を放送しており、歌の数は200種類あるとされていた。イラクのテレビ・ラジオの監督部門の長を務めた人物の証言によると、サッダームもこれらの放送を見ており、一時、テレビで歌を流す回数を減らしてエジプトのドラマを放送していた(実際、素人臭い作品ばかりで、出来の悪い歌が多かったためである)。これに気づいたサッダームは、担当者を呼びつけて放送を元に戻すよう指示したとされる。 また、アラブや古代メソポタミアの過去の英雄たちも引き合いに出され、即ち、サッダームはネブカドネザル2世やハンムラビ、マンスール、ハールーン・アッ=ラシードにならぶ偉大な指導者であるとされ、あげくの果てに偽造ともされる家系図を持ち出して預言者ムハンマドの子孫と喧伝された[47]。また、アラブ世界の英雄サラーフッディーンを同じティクリート出身のために尊敬・意識していたという説もあるが、皮肉にもサラーフッディーンはサッダームが苛烈な弾圧を行ったクルド人の出身である。 サッダームの主導で空中庭園などの再建計画が開始された古代遺跡バビロンの入り口にはサッダームとネブカドネザルの肖像画が配置され、碑文には「ネブカドネザルの息子であるサダム・フセインがイラクを称えるために建設した」と刻まれ[48]、サッダームは遺跡群内にジグラットを模した宮殿もつくろうとした。同様の計画がニネヴェ遺跡、ニムルド遺跡、アッシュール遺跡、ハトラ遺跡でも行われた[49]。 独裁者として、イラクを恐怖で統治していたサッダームであるが、1970年代から80年代に掛けて、イラクをアラブで随一の社会の世俗化を図り、近代国家にしたという功績がある。その一つがイラク石油国有化である。 バアス党政権はソ連と共同で南部最大のルメイラ油田を開発させた後、1972年に国家的悲願だった石油事業の国有化を断行した。長年イラクは外資系のイラク石油会社に権益を独占され、石油利益が国家に還元されていなかった。一般に、石油国有化はサッダームの功績の一つにあげられているが、実際に計画を立てて指揮を執ったのは、当時の石油大臣であるムルタダー・アル=ハディーシーであり、政治決断をしたのがサッダームである。 バアス党政権は、国富の公平な配分を掲げていたが、原油から得られる収入が限られていたため、国有化後も思うような成果が上がらなかった。しかし、1973年に石油輸出国機構の原油価格が4倍に急騰したことで状況は好転した。このころを境にイラクの石油収益は伸び続け1980年には、1968年から比較して50%の260億ドルに達した。 この石油収入を背景にバアス党政権は第3次五ヵ年計画を立て、上中流階級の解体、社会主義経済と国有化推進、イラクの経済的自立を目指した。石油産業、軍装備、原発はソ連、その一部をフランス、鉄道建設はブラジル、リン酸塩生産施設はベルギー、旧ユーゴスラビア、東西ドイツ、中国、日本にはハイテク分野の専門家や外国人労働者、専門技師の派遣を要請した。 これにより、バアス党政権は約400億ドルを懸けて第4次五ヵ年計画を進め、全国に通信網・電気網を整備し、僻地にも電気が届くようになった。貧困家庭には無料で家電が配布された。また農地解放により、農業の機械化、農地の分配を推進し、最新式の農機具まで配られ、国有地の70%が自営農家に与えられた。こうした政策により、1970年代後半にはイラクの人口は35%増加した。また、水利事業にも積極的であり、ドイツ、イタリアの協力でモスルダム(旧サッダーム・ダム)、ソ連の協力でハディーサー・ダム
個人崇拝
イラク近代化
国内総生産における国営部門の比率も72年には35.9%だったのに対し、77年には80.4%と増加。事実上、バアス党政権が、国民に富を分配する唯一の存在となり、最大の「雇用主」であった。1970年から1980年まで年率11.9%という二桁の経済成長でイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった[50][51]。
他にもサッダームはイラク全国に学校を作り、学校教育を強化した。教育振興により児童就学率は倍増した。イラクの低識字率の改善のため、1977年から大規模なキャンペーンを展開し、全国規模で読み書き教室を開講し、参加を拒否すれば投獄という脅迫手段を用いたものの、イラクの識字率はアラブ諸国で最も高くなり、1980年代に大統領となったサッダームにユネスコ賞が授与された。
また、女性解放運動も積極的に行なわれ性別による賃金差別や雇用差別を法律で禁止し、家族法改正で一夫多妻制度を規制、女性の婚姻の自由と離婚の権利も認められた。女性の社会進出も推奨し、当時湾岸アラブ諸国では女性が働くことも禁じていた中で、イラクでは女性の公務員が増え、予備役であるが軍務に付くこともあった。男尊女卑の強い中東において「名誉の殺人」が数多く行われていた中、この「名誉の殺人」を非難した人物であることは、あまり知られていない。もっとも、1991年の湾岸戦争以後は、イスラーム回帰路線を推し進め、この「名誉殺人」も合法化。アルコール販売の規制や女性の服装規定の厳格化を進めた。
さらにイラクのハブ空港であるバグダード国際空港(サッダーム国際空港)を建設した。
これらは石油生産性がピークに達するバクル政権と、それが連続するサッダーム政権初期の功績である。がしかし、後のサッダームはイラン・イラク戦争や湾岸戦争での二度に渡る戦争での債務、その後の国連制裁によってこれらの成果を無に帰してしまった。 サッダームは恐怖によってシーア派・スンナ派・クルド人の対立を抑え込んでいた。しかしサッダーム政権崩壊後のアメリカの占領政策の失敗とイラク政府の無為無策により、一時宗派対立で内戦状態に陥り、さらにその後は隣国のシリア内戦の影響も受けてISILが流入してイラク政府軍、クルド人、シーア派民兵と衝突し、これにサッダームの最側近だったイッザト・イブラーヒームの旧バアス党残党のスンニ派勢力も加わり、テロも頻発して治安も悪化した。トルコの政治家アブドゥラー・ギュルはユーゴスラビア社会主義連邦共和国解体が内戦につながった様にイラクを「パンドラの箱」と揶揄していた。 実父フセイン・アル=マジードは、サッダームの妹スィハーム・フセイン・アル=マジード出生後に行方不明となった。盗賊に襲われたとも、家を捨てたとも言われるが定かでは無い。後にサッダームは、父の名前を模した「フセイン・アル=マジード・モスク」を故郷ティクリートに建設している。母のスブハ・ティルファーは農家出身で、占い師として生計を立てていた。いつごろフセイン・アル=マジードと別れたのかは不明で、イブラーヒーム・ハサンと再婚し、サブアーウィー、バルザーン、ワトバーン、ナワールの3男1女を生んだ。サッダームの継父にあたるハサンは周囲から「ホラ吹きハサン」と呼ばれており、決して周囲から尊敬されるような人物では無かったとされる。 妻サージダ・ハイラッラーは、サッダームの叔父ハイラッラー・タルファーフの娘に当たり、サッダームとの結婚はいとこ同士の婚姻に当たる。
サッダーム政権崩壊後のイラク
家族・親族