サッダーム・フセイン
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2度目の尋問は2006年2月に行われたが、6時間の取り調べでサッダームは黙秘を貫いたという[41]

10月18日の初公判の前に、ドゥライミー弁護士との面会でサッダームは「自分は無実だ」「(罪状には)気にとめていない」などと語ったという。

10月19日、バグダードの高等法廷で、1983年にイラク中部の村ドゥジャイルにおいて住民140人以上を殺害した事件の初公判が開かれた。だが、初公判の時にリズカル・アミン裁判長(当時)の人定質問に答えずにコーランを法廷中に唱えたり、名前を聞かれても名乗ることはなく、裁判そのものに対する拒否の意思をはっきりと示した。また、裁判長がサッダームの経歴を朗読した際には「元ではない。今も共和国大統領だ」と発言し、自身こそがイラクの合法的な大統領であると発言した。サッダームは法廷を「裁判のような“もの”」と表現し、一貫して法廷の不当性を訴えた。一方で、裁判長を持ち上げるような発言も行った。

12月6日の公判では、「サッダーム・フセインを弁護するためではなく、イラクが気高くあり続けるための率直な発言を許してほしい」と述べ、裁判長に対しても「あなたに圧力がかかっているのは分かっている。わたしの息子の一人(裁判長を指す)と対峙しなければならないのは残念だ」と裁判長の職務に理解を示すような発言をしたかと思えば、「こんなゲームが続いてはいけない。サッダーム・フセインの首が欲しければくれてやる」「私は死刑を恐れない」などと発言し、裁判長を挑発した。この日の公判では、事件の被害者検察側証人として出廷。サッダームは、証人に対しても「小僧、私の話のこしを折るな」と述べ、挑発的な態度を崩さなかったが、一方で、拷問の様子や拘置所での実態を涙ながらに語る女性証人の証言の最中には、動揺した様子で顔をうつむいて静かに話に聞き入るなど、他の男性証人に対してとは違う態度を見せた。

しかし、公判の最後では、弁護側の要求を無視して翌7日の公判開始を決めたアミン裁判長に対し、「不公正な裁判にはもう出ないぞ。地獄へ落ちろ!」と罵る一幕もあった。 7日の公判では、同日に弁護側と接見出来なかったことに抗議してサッダームは出廷せず、他の被告は出廷したものの、開廷が4時間近く遅れ、サッダーム不在のまま裁判は続けられた。12月21日、数週間ぶりに再開された公判には出廷したが、自身を「サッダーム」と呼び捨てにした検察側証人に「サッダームとは誰だ」と声をあげるなど、強気の姿勢を見せた。

2006年11月5日、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのイスラム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇だ」として非難した。

12月26日に開かれた第2審でも、第1審の判決を支持し、弁護側の上訴を棄却したため死刑が確定。翌27日、サッダームはイラク国民向けの声明を弁護士を通じて発表し、「神が望むなら、私は殉教者に列せられるだろう」と死刑を受け入れる姿勢を見せると共に、イラクで当時激化していた宗派対立に言及し、「イラクの敵である侵略者とペルシア人があなたたちに憎悪の楔を打ち込んだ」とアメリカとイランを非難。そして、「信仰深き国民よ、私は別れを告げる。私の魂は神のもとへ向かう。イラク万歳。イラク万歳。パレスチナ万歳。ジハードに万歳。アッラーフアクバル」と結んでいる。弁護士に対しては、「イラク国民が私を忘れないことを願う」と述べたという[42]
死刑執行「サッダーム・フセインの死刑執行」も参照

2006年12月30日、サッダームは、アメリカ軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から移され、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請したが、ヌーリー・マーリキー政権は国内の「サッダーミスト」(サッダーム支持者)が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行した。サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。
死後

刑執行後、サッダームの遺体は故郷であるアウジャ村のモスクに埋葬された。

埋葬後は、住民らによって葬儀が執り行われた。その後もサッダームの誕生日と命日には地元児童らが「課外授業」の一環として、サッダームの墓前に花を捧げ、彼を讃える歌などを合唱していたため、2009年7月、イラク政府はサラーフッディーン県当局に対して集団での墓参を止めるよう命じた[43]

イラク政府の指導に反して、その後も主にスンナ派アラブ人のイラク国民やサッダーム支持者が墓のあるモスクを訪れ、サッダームがかつて住んでいたティクリートにある旧大統領宮殿と並んで半ば「聖地」のようになっていたが、2015年にイラク軍及びシーア民兵がイスラーム国(ISIL)からティクリート奪還作戦を行った際の戦闘によりサッダームの墓も破壊された。ただし、どちらの攻撃で破壊されたのか、或いは戦闘の巻き添えで破壊されたのか、または意図的に破壊されたのかは不明であるが[44]、イスラーム国の戦闘員が撤退する際に爆破したとの見方が有力である。

サッダームが所有していたものの、一度も乗ることがなかった豪華船「バスラ・ブリーズ号」が現存している。イラク政府が売却を試みたが買い手が見つからず、バスラ港でホテルに転用された[45]
サッダーム政権倒されるサッダームの銅像
政治スタイル

反対派への粛清、それによる恐怖政治弾圧から諸外国から典型的な独裁者として恐れられた。

特にサッダームはヨシフ・スターリンの政治スタイルを手本にしたとされる。事実、サッダーム体制にはスターリン主義の特徴が見受けられる。第二次世界大戦反共十字軍を掲げて侵攻するナチス・ドイツに勝ったスターリンをかつてのサラーフッディーン、その戦いがあったスターリングラードを、「サッダーム・シティ」に見立てた[46]。サッダームはスターリンを共産主義者というよりナショナリストと見ているとクルド人の政治家マフムード・オスマーンは推察している。オスマーンによると、大統領宮殿のサッダームのオフィスにはスターリンに関する本が揃えてあり、オスマーンが「スターリンがお好きなようで」と言うと、「そうです。彼の統治の仕方が気に入っているので」と答えた。オスマーンが「あなたは共産主義者なのか?」と質問すると、サッダームは「スターリンが共産主義者とでも言うのかね」と反論したという。また、史上初の社会主義国をつくったとしてウラジーミル・レーニン、愛国者だったとしてホー・チ・ミンフィデル・カストロヨシップ・ブロズ・チトーなども称賛していた[47]

しかし、サッダームの主治医アラ・バシール医師によるとサッダームは1度もスターリンについて語らなかったとし、サッダームが尊敬していたのはスターリンではなくフランスシャルル・ド・ゴール大統領であったという。とりわけド・ゴールを「世界でもっとも偉大な政治家」と絶賛し、「彼は戦争の英雄、愛国者、立派なナショナリスト、フランス文明の真の産物」と評し、話をすると決まって最後はド・ゴールの話になったという。ド・ゴール主義者であるジャック・シラクとも個人的に親しくしていた。ちなみにアドルフ・ヒトラーについては「奴は我々アラビア人を差別していた」と嫌っていたという。
警察国家

また、サッダーム政権下のイラクでは、幾つもの治安機関が存在し、市民の監視や反体制的言動の摘発に当たっていた。主な物では、総合諜報局、総合治安局といった組織で、相互連携することなく、別個に行動している。治安機関は、あらゆる市民社会に侵入し、タクシーの運転手、レストランの店員などが治安機関の人間である場合もあった。こうした秘密警察による監視網は、国民を恐怖という心理で支配するだけでなく、隣人、家族、友人同士が互いに互いを監視し、密告し合う社会が形成された。親が家で言ったことを子供が学校で喋ってしまい、教師が治安機関に通報したというケースもあったと言われる。このため、サッダーム体制のイラクを、亡命イラク人のネオコンで有名なカナン・マキヤは「恐怖の共和国」と名付けた。1980年ごろ核兵器開発の作業を拒否した科学者のフセイン・アル=シャフリスターニーの体験は凄惨を極め、22日間にわたり電気ショックなどの拷問を受けたうえ、逃亡までの11年間を獄中で過ごしたという。アメリカのテレビで告白し、恐怖政治の実態が明らかになった[48]

監視だけでなく、市民に対する恣意的逮捕や拷問も日常的に行われた。アムネスティによるとサッダーム時代には107種類の拷問がイラク各地の刑務所で行われていたとしている。その拷問はわざと苦痛を感じさせて、障害を残すような極めて残忍な拷問である。ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告によるとサッダーム政権下で約29万人が失踪あるいは殺害されたと報告している。

イラク現政府は、「サッダーム・フセイン時代の恐怖展」を開き、拷問道具や犠牲者の遺品などを展示した[49]


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