サッダーム・フセイン
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政権崩壊後、米国の連邦捜査局の取調官がサッダームにクウェート侵攻の理由について尋ねると、原油盗掘などの懸案協議に向け外相を派遣した際、クウェート側から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたとされ、侵攻に向けた決断のひとつが感情的なものであったことも明らかになった[22]

しかし、このイラクの軍事侵攻は国際社会から激しい批判を浴び、アメリカは同盟国サウジアラビア防衛を理由として、空母と戦闘部隊を派遣した。国際連合安全保障理事会対イラク制裁決議とクウェート撤退決議を採択した。これに対してサッダームは、8月8日にクウェートを「イラク19番目の県」としてイラク領への併合を宣言。同時に、イスラエルがパレスチナ占領地から撤退するならば、イラクもクウェートから撤退するという「パレスチナ・リンケージ論」を提唱し安保理決議に抵抗した。また、日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。なお、この時サッダームは人質解放を巡って日本の元首相である中曽根康弘会談しており、その後74人の人質を解放している[23]

このサッダームの姿勢は、パレスチナ人など一部のアラブ民衆には支持されたが、同じアラブ諸国サウジアラビアエジプト反米国であるシリアもイラクに対して「クウェート侵攻以前の状態に戻る」ことを要求し、国際社会の対イラク包囲網に加わった[注釈 3]。12月に入って、イラクが1991年1月15日までにクウェートから撤退しないのなら、「必要なあらゆる処置をとる」との武力行使を容認する安保理決議を採択した。

1991年1月17日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が対イラク軍事作戦である「砂漠の嵐」作戦を開始し、イラク各地の防空施設やミサイル基地を空爆。ここに湾岸戦争が開戦した。サッダームは、多国籍軍との戦力差を認識しており、開戦後はいかにしてイラクの軍事力の損失を防ぐか、被害を最小限に食い止めるかに重きを置いており、空軍戦闘機をかつての敵国であるイランに避難させたりしている。同時に、弾道ミサイルを使ってサウジアラビアやイスラエルを攻撃させている。イスラエルを攻撃したのは、イスラエルを戦争に巻き込むことによって争点をパレスチナ問題にすり替えて、多国籍軍に加わっているアラブ諸国をイラク側に引き寄せようとの思惑であったが、アメリカがイスラエルに報復を自制するよう強く説得したため、サッダームの思惑は外れた。

2月に入り、サッダームと個人的に親交のあったソ連エフゲニー・プリマコフ外相がバグダードを訪れてサッダームと会談し、停戦に向けて仲介を始めた。そしてターリク・アズィーズ外相とミハイル・ゴルバチョフ大統領との間の交渉により、撤退に向けて合意した。その一方でイラクはクウェートの油田に放火するなど焦土作戦を始めた。

これに反発したブッシュ政権は2月24日、アメリカ軍による地上作戦を開始。ここへきてサッダームはイラク軍に対してクウェートからの撤退を命じ、2月27日にはクウェート放棄を宣言せざるを得なかった。4月3日、国連安保理はイラクの大量破壊兵器廃棄とイラクに連行されたクウェート人の解放を義務とした安保理決議を採択。4月6日、イラクは停戦を正式に受諾し、湾岸戦争は終結した。
国連制裁下の政権テレビ演説するサッダーム(1996年)

敗戦による政権の隙をついて、国内のシーア派住民クルド人が政権への反乱を起こした(1991年イラク反政府蜂起)。民衆蜂起はまず南部で拡大し、一気に全国18県中14県が反政府勢力側の手に落ちた。しかし、反政府勢力が期待していたアメリカ軍の支援は無かった。アメリカイランと同じシーア派勢力の台頭を警戒しており、イラク国民に対してはサッダーム政権を打倒するよう呼びかけたが、自ら動くことは無かった。アメリカが介入しないとみるや、サッダームは温存させてあった精鋭の共和国防衛隊を差し向けて反政府勢力の弾圧に成功する。この際、反政府蜂起参加者に対して、非常に苛烈な報復が行われ、シーア派市民に対する大量虐殺が発生した。政権による弾圧の犠牲者は湾岸戦争の犠牲者を上回る10万人前後と言われている。

南部の反乱を平定すると、政権は北部のクルド人による反乱を抑え込もうと北部に兵を進めた。この時、サッダーム政権による化学兵器まで用いた弾圧の記憶が生々しく残っているクルド人たちは、一斉にトルコ国境を超え、大量の難民が発生し、人道危機が起こった。こうした事態を受けて、米英仏が主導する形でイラク北部に飛行禁止空域を設置する決議が採択され、イラクの航空機の飛行が禁止された。

1991年6月には、政権による強引な水路開発計画に抗議するため、南部の湿地帯に住むマーシュ・アラブ人が反乱を起こした。この反乱もマーシュ・アラブ人が住む湿地帯を破壊するという容赦の無い弾圧で抑え込んだものの、これにより飛行禁止空域はイラク南部にも拡大された。飛行禁止区域は2003年まで設定され、米英軍の戦闘機イラク軍の防空兵器を空爆したり、区域を侵犯したイラク軍機を撃墜するなどした。

1993年1月、サッダームは南部の飛行禁止空域に地対空ミサイルを設置し、再び国際社会を挑発する行動に出た。この時期、アメリカでは前年の大統領選挙の結果、ジョージ・H・W・ブッシュを破って当選したビル・クリントンアメリカ合衆国大統領就任式の数日前という微妙な時期であった。サッダームはこの時期ならばアメリカは軍事行動を起こせないと見込んでいたが、地対空ミサイル設置は国連安保理決議違反であるとして、米英仏による多国籍軍による空爆を招いてしまう。その結果、地対空ミサイルやレーダー施設、核関連施設などが爆撃された。

1993年4月には、クウェートを訪問したブッシュ前大統領暗殺を企てていたとして、イラク工作員逮捕されるという事件が起こった。同年6月、この報復として、アメリカ軍はトマホークミサイル23発をバグダードに発射し、イラクの諜報機関「総合情報庁」の本部を攻撃している。
政権崩壊
イラク戦争詳細は「イラク戦争」を参照

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。9・11テロについてもサッダームは演説で「アメリカが自ら招いた種だ」と、テロを非難せず、逆に過去のアメリカの中東政策に原因があると批判、同年10月20日まで哀悼の意を示さなかった。同時テロ以降のアメリカ合衆国は、アルカーイダを支援しているとしてサッダーム政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。もっともイラク攻撃自体はアメリカ同時多発テロ事件以前から、湾岸戦争時の国防長官であった副大統領ディック・チェイニーや国防長官ドナルド・ラムズフェルドを中心とする政権内部の対イラク強硬派、いわゆるネオコンらによって既に議論されていたようである[24]。ただし、サッダーム政権転覆計画については、前のクリントン民主党政権から対イラク政策の腹案の一つとして存在していた。

2002年1月、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ政権は、イラクイラン北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」と名指しで批判した。2002年から2003年3月まで、イラクは国際連合安全保障理事会決議1441に基づく国連監視検証査察委員会の全面査察を受け入れた。

2003年3月17日、ブッシュは48時間以内にサッダーム大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。サウジアラビアアラブ首長国連邦バーレーン戦争回避のために亡命をするように要請したがサッダームは黙殺したため、開戦は決定的となった[25]

2003年3月20日、ブッシュ大統領は予告どおりイラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍もこれに加わった。


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