サッダーム・フセイン
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これを機に「政治的自由化」の動きは失速し、民主化も頓挫したのであった[18]

その一方で、イラクの軍備は増強されていった。兵力は180万人に膨れ上がり、戦闘機の数も700機に上った。サッダームは、イランが停戦に応じたのはイラク軍の軍備増強、ミサイル兵器による攻撃などイランを力で追い詰めることが出来たからだと考えていた。軍事大国化こそ勝利の道であるという信念がサッダームに植え付けられ、そのことが戦後も軍備増強を続ける原因になったとされる[19]

1990年3月、英紙「オブザーバー」のイギリス系イラン人の記者が、イラクの化学兵器製造工場に潜入取材をしたとして、イギリス政府の懇願にもかかわらず処刑される事件が起きる。4月に入るとサッダームは「もしイラクに対して何か企てるなら、イスラエルの半分を焼きつくす」と発言した。これは、戦後のイラクの軍事的プレゼンスをアラブ諸国に印象づけ、アラブ世界における主導権の獲得を目指した発言であったが、西欧諸国の懸念を呼んだ。

さらに西欧諸国のサッダーム政権に対する懸念と警戒感を呼んだのは、イラクが自国民であるクルド人に対して化学兵器を用いた大量虐殺を行っていたことが、欧米の人権団体により明らかにされたことだった。こうした事例に加え、イラクが核兵器起爆装置を製造しているのではないかという疑惑や、イギリスが長距離砲弾用と思われる筒(多薬室砲)をイラクが輸入しようとしていたのを差し押さえるなど、イラクの軍備拡大に警鐘を鳴らす出来事が起きたことだった。欧米のメディアもこぞってサッダーム政権の「残忍性」を批判し、それにイラクが反発するなど欧米諸国との関係は悪化していった。

一方、アメリカとの関係は非常に良好であった。アメリカは、1988年から89年までの間にイラク原油の輸入を急速に増やすと共に、年間11億ドルを越える対イラク輸出を行い、アメリカはイラクの最大の貿易パートナーとなっていた。また、クルド人に対するイラクの化学兵器使用を非難し、イラクに対する信用供与を停止する経済制裁決議を米下院が採択しても、アメリカ政府はとりたてて動かず「制裁は米財界に打撃」との理由で、イラクに警告する程度にとどまった[20]

酒井啓子は自著「イラクとアメリカ」の中でこうした一連のアメリカの対応が、サッダームに「少々のことが起こっても、アメリカは対イラク関係を悪化させたくない」というメッセージとなって伝わったに違いないとしている[21]

一方でサッダームは、戦後復興のために石油価格の上昇による石油収入の増大を狙っていた。1990年1月、サッダームは石油価格引き上げを呼びかけ、サウジアラビアや同様に戦後復興に苦慮していた敵国イランもイラクの呼びかけに応じた。しかし、クウェートはイラクの呼びかけに答えず、石油の低価格増産路線を続け、逆に価格破壊をもたらした。

イラクはクウェートを非難したが、クウェートは応じなかった。7月に入るとイラク側は「クウェートがイラク南部のルマイラ油田から盗掘している」と糾弾し、軍をクウェート国境に南下させて軍事圧力を強め、クウェートとの直接交渉に臨んだ。7月26日、クウェートはようやく石油輸出国機構の会議で、石油価格を1バレル21ドルまで引き上げるとの決定に同意したが、イラクは軍事行動を拡大し、7月30日には10万規模の部隊が国境に集結した。

こうして1990年8月2日、イラク共和国防衛隊がクウェートに侵攻した。当初は「クウェート革命勢力によって首長制が打倒され、暫定政府が樹立された」として、「クウェート暫定政府による要請で」イラクがクウェートに駐留すると発表していた。

イラクがクウェートに侵攻した理由について、上記の石油生産を巡る政治的対立の他にも、歴代のイラク政権がオスマン帝国時代の行政区分でクウェートがバスラ州の一部であったことを根拠に領有権を主張していたことや、クウェート領であるワルバ・ブービヤーン両島がイラクのペルシア湾に通じる狭い航路をふさいでおり、それを取り除いて石油輸出ルートを確保しようとしたとも言われている。

政権崩壊後、米国の連邦捜査局の取調官がサッダームにクウェート侵攻の理由について尋ねると、原油盗掘などの懸案協議に向け外相を派遣した際、クウェート側から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたとされ、侵攻に向けた決断のひとつが感情的なものであったことも明らかになった[22]

しかし、このイラクの軍事侵攻は国際社会から激しい批判を浴び、アメリカは同盟国サウジアラビア防衛を理由として、空母と戦闘部隊を派遣した。国際連合安全保障理事会対イラク制裁決議とクウェート撤退決議を採択した。これに対してサッダームは、8月8日にクウェートを「イラク19番目の県」としてイラク領への併合を宣言。同時に、イスラエルがパレスチナ占領地から撤退するならば、イラクもクウェートから撤退するという「パレスチナ・リンケージ論」を提唱し安保理決議に抵抗した。また、日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。なお、この時サッダームは人質解放を巡って日本の元首相である中曽根康弘会談しており、その後74人の人質を解放している[23]

このサッダームの姿勢は、パレスチナ人など一部のアラブ民衆には支持されたが、同じアラブ諸国サウジアラビアエジプト反米国であるシリアもイラクに対して「クウェート侵攻以前の状態に戻る」ことを要求し、国際社会の対イラク包囲網に加わった[注釈 3]。12月に入って、イラクが1991年1月15日までにクウェートから撤退しないのなら、「必要なあらゆる処置をとる」との武力行使を容認する安保理決議を採択した。

1991年1月17日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が対イラク軍事作戦である「砂漠の嵐」作戦を開始し、イラク各地の防空施設やミサイル基地を空爆。ここに湾岸戦争が開戦した。サッダームは、多国籍軍との戦力差を認識しており、開戦後はいかにしてイラクの軍事力の損失を防ぐか、被害を最小限に食い止めるかに重きを置いており、空軍戦闘機をかつての敵国であるイランに避難させたりしている。同時に、弾道ミサイルを使ってサウジアラビアやイスラエルを攻撃させている。イスラエルを攻撃したのは、イスラエルを戦争に巻き込むことによって争点をパレスチナ問題にすり替えて、多国籍軍に加わっているアラブ諸国をイラク側に引き寄せようとの思惑であったが、アメリカがイスラエルに報復を自制するよう強く説得したため、サッダームの思惑は外れた。

2月に入り、サッダームと個人的に親交のあったソ連エフゲニー・プリマコフ外相がバグダードを訪れてサッダームと会談し、停戦に向けて仲介を始めた。そしてターリク・アズィーズ外相とミハイル・ゴルバチョフ大統領との間の交渉により、撤退に向けて合意した。その一方でイラクはクウェートの油田に放火するなど焦土作戦を始めた。

これに反発したブッシュ政権は2月24日、アメリカ軍による地上作戦を開始。ここへきてサッダームはイラク軍に対してクウェートからの撤退を命じ、2月27日にはクウェート放棄を宣言せざるを得なかった。4月3日、国連安保理はイラクの大量破壊兵器廃棄とイラクに連行されたクウェート人の解放を義務とした安保理決議を採択。4月6日、イラクは停戦を正式に受諾し、湾岸戦争は終結した。
国連制裁下の政権テレビ演説するサッダーム(1996年)

敗戦による政権の隙をついて、国内のシーア派住民クルド人が政権への反乱を起こした(1991年イラク反政府蜂起)。民衆蜂起はまず南部で拡大し、一気に全国18県中14県が反政府勢力側の手に落ちた。しかし、反政府勢力が期待していたアメリカ軍の支援は無かった。アメリカイランと同じシーア派勢力の台頭を警戒しており、イラク国民に対してはサッダーム政権を打倒するよう呼びかけたが、自ら動くことは無かった。アメリカが介入しないとみるや、サッダームは温存させてあった精鋭の共和国防衛隊を差し向けて反政府勢力の弾圧に成功する。この際、反政府蜂起参加者に対して、非常に苛烈な報復が行われ、シーア派市民に対する大量虐殺が発生した。政権による弾圧の犠牲者は湾岸戦争の犠牲者を上回る10万人前後と言われている。

南部の反乱を平定すると、政権は北部のクルド人による反乱を抑え込もうと北部に兵を進めた。この時、サッダーム政権による化学兵器まで用いた弾圧の記憶が生々しく残っているクルド人たちは、一斉にトルコ国境を超え、大量の難民が発生し、人道危機が起こった。こうした事態を受けて、米英仏が主導する形でイラク北部に飛行禁止空域を設置する決議が採択され、イラクの航空機の飛行が禁止された。

1991年6月には、政権による強引な水路開発計画に抗議するため、南部の湿地帯に住むマーシュ・アラブ人が反乱を起こした。この反乱もマーシュ・アラブ人が住む湿地帯を破壊するという容赦の無い弾圧で抑え込んだものの、これにより飛行禁止空域はイラク南部にも拡大された。飛行禁止区域は2003年まで設定され、米英軍の戦闘機イラク軍の防空兵器を空爆したり、区域を侵犯したイラク軍機を撃墜するなどした。

1993年1月、サッダームは南部の飛行禁止空域に地対空ミサイルを設置し、再び国際社会を挑発する行動に出た。この時期、アメリカでは前年の大統領選挙の結果、ジョージ・H・W・ブッシュを破って当選したビル・クリントンアメリカ合衆国大統領就任式の数日前という微妙な時期であった。


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