サッカー
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セパタクローは、中国の蹴鞠が伝わったものともいわれる[31][32]
イタリア詳細は「カルチョ・フィオレンティノ」を参照17世紀、フィレンツェで行われたカルチョ・フィオレンティノの様子

15世紀イタリアでも、イングランドのフットボールに良く似た「カルチョ」(Calcio) という遊びが存在した。この遊びがイングランドやフランスと決定的に異なる点は、農村地帯の広い空間でなく、都市の限られた空間である広場で行われていたことである。そのため自ずとフィールドが限定され、参加人数も限られたものとなり、簡単な役割や作戦も決められていたようで、これは現在のフットボールにかなり近い存在であったと言える。
サッカーの確立詳細は「サッカーの歴史」および「フットボール#近代フットボールの歴史」を参照

フットボールやカルチョのような遊びは近世末までヨーロッパ各地で行われていた。イングランドで行われていたものについては、決められたルールなどなく、色々なやり方でプレーされており、そのため極めて乱暴で、殺人を除くあらゆる手段が使われ、時に死者を出すことすらあったため、1314年にロンドン市長エドワード2世の名で禁止令を出して以降、1847年までの533年間で、わかっているだけで42回にわたって禁止令が出されている。16世紀に宗教改革が行われると、禁欲的な生活から少し開放的になり、国王の庇護のもとに試合が行われるようになった[33]。ところが18世紀中頃から19世紀にかけて勃興した産業革命によって、大量の工場労働者を生み出すために農村の共同体が崩壊させられると次第に廃れていった。

農村の代わりにフットボールをレクリエーションとして受け入れ、近代的な「スポーツ」として成立させたのがイングランドにおけるパブリックスクールである。パブリックスクールでも当初は農村での遊びに近い形態で行われていた。18世紀の後半にパブリックスクールが上流階級の子弟のための教育機関となると、生徒は自分達よりも下の階級に属する校長や教師の指導に従わなくなった。この時期(18世紀後半から19世紀初め)にかけてのパブリックスクールには乱暴な雰囲気があり、フットボールもそのような雰囲気のなかで行なわれており、上級生が下級生に権力をふるうための手段ともなっていた[34]。産業革命により新たに台頭した企業家たちがパブリックスクールの運営にもかかわるようになると、上級生が下級生を支配するのではなく、教師の権威が確立され、学校の規律が守られるようになった。こうしたパブリックスクール自体の改革によって、フットボールもまたルールに基づき人格形成に役立つような「スポーツ」を目指すようになった[35][33]
フットボールとラグビーの分岐

当時のフットボールは学校毎にルールが異なり、他校との試合の際はその都度ルール調整のための話し合いが持たれていたが、手間もかかり、ルールに対する理解に齟齬を来たした。そのため、ルール統一を目指した協議がしばしば行われ、1846年ケンブリッジ大学で共通ルールとしてのケンブリッジルールが立案された。これが現在のサッカーのルールの基になった[24]。ケンブリッジルールの特徴としてラグビー校式のルールがほぼ取り入れられなかったことが挙げられる。上流階級の出身者が多いイートン校ハーロー校の卒業生が、中流階級の子弟が比較的多いラグビー校の卒業生を格下とみなしていた階級差別もこの一因であったことが指摘されている[36]

こうして1850年代までにはイートン校を中心とする「手を使うことを制限するルール」と、ラグビー校を中心とする「手を使うことを許可するルール」との二大勢力に収束していったが、両者の間には依然として大きな隔たりがあった。1863年には、一部のクラブはボールを手で持って運ぶこと(キャリング)、ボールを運んでいる相手の脛を蹴ること(ハッキング)を認めるラグビー校スタイルのルールを採用し、その他のクラブはどちらも禁止していた。1863年10月26日にイギリスロンドンにある居酒屋フリーメイソンズ・タバーンにて、ロンドンの12(11とする資料もある)のクラブが「統一ルールの作成と、試合における同ルールの運用に携わる協会の設立」を目指した会議を開いた。参加したクラブは、バーンズ、ブラックヒース(後に脱退)、ブラックヒース・スクール、クルセイダーズ、クリスタル・パレス、フォレスト、ケンジントン・スクール、ノー・ネイムズ、パーシバル・ハウス、サーピトンなどである。この日がフットボール協会(FA)の公式な設立日とされる。この日の会合ではハッキング派と反対派との間の激しい隔たりがあった。同年11月17日の会合ではハッキング派が優位に立ち、この問題を議論した。FAの主事エベネーザー・コッブ・モーリーによって起草されたFAの規則の初稿はこの好みを反映し、今日ではサッカーよりもラグビーに近いと見なされるであろう多くの要素を含んでいる。

11月24日の会合では、「ハッキング派」が再び辛うじて過半数を占めた。しかしながら、この会合で、モーリーはその年の10月に出版されキャリングとハッキングを禁止したケンブリッジ大学のフットボール規則に出席者の注意を向けさせた。ケンブリッジルールの議論とこの問題に関してケンブリッジと意思疎通をはかることを勧める提案によって、規則の最終的な「調停」は12月1日の会合に先延ばしとなった[37]。ラグビー式フットボールを支持する多くの代表者はこの追加会合に出席せず[38][39]、結果としてキャリングとハッキングは禁止された[39]。ブラックヒースと他のハッキング支持派クラブはFAを脱退した[注釈 7]。ハッキング派(ラグビー派)は、1871年にラグビーフットボール連合を設立した。

同1863年12月、FAの規則の最終版が正式に採用された、14条から成る統一ルールが誕生した[41]。これを現代サッカーの始まりと見なすことができる。FAのフットボールは協会式フットボール(Association Football)と呼ばれるようになった。その省略形 soc に「人」を意味する -er をつけたものが soccer の語源であり、1880年代頃から使われているといわれている。1863年の規則と現在の規則との大きな違いは以下の通りである。

クロスバーがなく、ゴールはどの高さでも決めることができること(今日のオーストラリアンフットボールと同じ)

ほとんどのハンドリングは禁止だったが、ボールのキャッチは認められていた(持ったまま走ったり、投げたりはできなかった)。フェアキャッチに対してはフリーキックが与えられた(今日のオーストラリアンフットボール、ラグビーユニオンアメリカンフットボールに残っている)。

厳格なオフサイドルール。ボールより前にいる味方選手はオフサイドとなった(今日のラグビーユニオンのオフサイドと似ている)。唯一の例外はボールがゴールラインの後方から蹴られた時。

ボールがタッチの外に出た後に最初にボールに触った選手にスローインが与えられた。ボールはタッチラインから直角に投げ入れなければならなかった(今日のラグビーユニオンのラインアウトと同じ)。

コーナーキックはなかった。ボールがゴールラインの後ろに出た時は、ラグビーと幾分似た状況となった。攻撃側が最初にボールに触った時は攻撃側がボールを触った地点から15ヤード後方からゴールへのフリーキックを得て(ラグビーのコンバージョンに幾分似ている)、守備側が最初にボールに触った時は、ゴールラインの後方からのキックアウトとなった(現在のゴールキックに相当する)。

ゴールが決まる毎にエンドを交換した。

ゴールキーパー、審判、反則に対する罰、試合時間、ハーフタイム、選手の数、ピッチのマーキング(プレーエリアの境界線を印す旗のみ)については規定が設けられていなかった。

このFAルールでの初の試合、つまり世界初の「サッカー」の試合は、1863年12月19日にイングランドで行われたリッチモンド対バーンズ戦で、0-0の引き分けだった[24]

1850年代は英語圏でパブリックスクールや大学との繋りを持たない多くのクラブが設立され、様々なルールでフットボールをプレーしていた。その内の1つの北部のクラブであるシェフィールドFCは1858年にシェフィールド・ルールを策定し、このルールは北部地域ではサッカーよりも人気を博していた。シェフィールド・ルールではコーナーキックスローイン、クロスバーが考案され、またフェアキャッチを廃止したことによりヘディングの技術が発展した。サッカーはこれらの要素を取り込みつつ、最終的に1877年にはFAのルールとシェフィールド・ルールが統一された。ゴールキーパーのポジションは1871年に導入された。
サッカーの伝播1872年、イングランドスコットランドの間で行われた世界初の公式国際試合(当時の新聞の挿絵)

イングランドのパブリックスクールで始められたサッカーは、パブリックスクールのOBを中心に早い段階からイギリス各地域(スコットランドウェールズアイルランド)に広まっていった。


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