サッカー
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

紀元前1500年チリのピリマタム、パタゴニアのチョエカ、紀元前800年メキシコマヤ文明のポク・タ・ポクまたはピッツ、アステカのウラマリツリなどがあった[23][24]

足でボールを蹴る遊戯は、考古学的には、古代エジプト古代ギリシャ古代ローマから足でボールを蹴る人物のレリーフが発見されている(紀元前200年古代ギリシャのエピスキロス、紀元前200年古代ローマのパルパツウム)[24]

FIFAミュージアムでは、日本と中国の蹴鞠メソアメリカの球技、古代ギリシャの球技エピスキロス(英語版)やファエニンダ(Phaininda)、アポラクシス(aporraxis)、オウラニア(ourania)、古代ローマの球技ハルパストゥム(英語版)、トリゴン(英語版)、フォリス、パガニース、アレナータなどがサッカー前史として紹介されている[25]
中国・日本・東南アジア
詳細は「蹴鞠」を参照

中国では戦国時代に足で鞠を蹴りあう蹴鞠(しゅうきく)という遊戯が存在したことが、前漢末(紀元前1世紀)の「戦国策」に見える。同じく前漢の史記には、蹴鞠が、軍事訓練の基礎的な課目の一つであったと記載されている[26]

2014年には、内モンゴル自治区バヤンノール市磴口県で、早期青銅器時代から新石器時代後期の約5000年前の岩壁画に蹴鞠が描かれていたことが発見された[26]。2014年にFIFAのゼップ・ブラッター会長が中国の博物館に「中国はサッカー発祥の地」とする認定証をおくった際は物議を醸した[27][28]

蹴鞠は日本にも伝わり、644年には遊ばれており、独自の発展を遂げた[29]。FIFAミュージアムは、日本の蹴鞠は、何世紀も受け継がれてきた歴史的な記録を持っており、正確な詳細がわかっている唯一の古代の球技であると紹介している[25]

東南アジアマレー半島には、ボールを落とさないように数人で蹴り合うセパラガがあり、蹴鞠に類似している。タイには、篭の中にボールを蹴り入れることを競うジャンクイタクローがあり、これらはサッカーとバレーボールを合わせたようなセパタクロー(Sepak Takraw)として、9世紀からスポーツとして遊ばれている[30]。セパタクローは、中国の蹴鞠が伝わったものともいわれる[31][32]
イタリア詳細は「カルチョ・フィオレンティノ」を参照17世紀、フィレンツェで行われたカルチョ・フィオレンティノの様子

15世紀イタリアでも、イングランドのフットボールに良く似た「カルチョ」(Calcio) という遊びが存在した。この遊びがイングランドやフランスと決定的に異なる点は、農村地帯の広い空間でなく、都市の限られた空間である広場で行われていたことである。そのため自ずとフィールドが限定され、参加人数も限られたものとなり、簡単な役割や作戦も決められていたようで、これは現在のフットボールにかなり近い存在であったと言える。
サッカーの確立詳細は「サッカーの歴史」および「フットボール#近代フットボールの歴史」を参照

フットボールやカルチョのような遊びは近世末までヨーロッパ各地で行われていた。イングランドで行われていたものについては、決められたルールなどなく、色々なやり方でプレーされており、そのため極めて乱暴で、殺人を除くあらゆる手段が使われ、時に死者を出すことすらあったため、1314年にロンドン市長エドワード2世の名で禁止令を出して以降、1847年までの533年間で、わかっているだけで42回にわたって禁止令が出されている。16世紀に宗教改革が行われると、禁欲的な生活から少し開放的になり、国王の庇護のもとに試合が行われるようになった[33]。ところが18世紀中頃から19世紀にかけて勃興した産業革命によって、大量の工場労働者を生み出すために農村の共同体が崩壊させられると次第に廃れていった。

農村の代わりにフットボールをレクリエーションとして受け入れ、近代的な「スポーツ」として成立させたのがイングランドにおけるパブリックスクールである。パブリックスクールでも当初は農村での遊びに近い形態で行われていた。18世紀の後半にパブリックスクールが上流階級の子弟のための教育機関となると、生徒は自分達よりも下の階級に属する校長や教師の指導に従わなくなった。この時期(18世紀後半から19世紀初め)にかけてのパブリックスクールには乱暴な雰囲気があり、フットボールもそのような雰囲気のなかで行なわれており、上級生が下級生に権力をふるうための手段ともなっていた[34]。産業革命により新たに台頭した企業家たちがパブリックスクールの運営にもかかわるようになると、上級生が下級生を支配するのではなく、教師の権威が確立され、学校の規律が守られるようになった。こうしたパブリックスクール自体の改革によって、フットボールもまたルールに基づき人格形成に役立つような「スポーツ」を目指すようになった[35][33]
フットボールとラグビーの分岐

当時のフットボールは学校毎にルールが異なり、他校との試合の際はその都度ルール調整のための話し合いが持たれていたが、手間もかかり、ルールに対する理解に齟齬を来たした。そのため、ルール統一を目指した協議がしばしば行われ、1846年ケンブリッジ大学で共通ルールとしてのケンブリッジルールが立案された。これが現在のサッカーのルールの基になった[24]。ケンブリッジルールの特徴としてラグビー校式のルールがほぼ取り入れられなかったことが挙げられる。上流階級の出身者が多いイートン校ハーロー校の卒業生が、中流階級の子弟が比較的多いラグビー校の卒業生を格下とみなしていた階級差別もこの一因であったことが指摘されている[36]

こうして1850年代までにはイートン校を中心とする「手を使うことを制限するルール」と、ラグビー校を中心とする「手を使うことを許可するルール」との二大勢力に収束していったが、両者の間には依然として大きな隔たりがあった。1863年には、一部のクラブはボールを手で持って運ぶこと(キャリング)、ボールを運んでいる相手の脛を蹴ること(ハッキング)を認めるラグビー校スタイルのルールを採用し、その他のクラブはどちらも禁止していた。1863年10月26日にイギリスロンドンにある居酒屋フリーメイソンズ・タバーンにて、ロンドンの12(11とする資料もある)のクラブが「統一ルールの作成と、試合における同ルールの運用に携わる協会の設立」を目指した会議を開いた。参加したクラブは、バーンズ、ブラックヒース(後に脱退)、ブラックヒース・スクール、クルセイダーズ、クリスタル・パレス、フォレスト、ケンジントン・スクール、ノー・ネイムズ、パーシバル・ハウス、サーピトンなどである。この日がフットボール協会(FA)の公式な設立日とされる。この日の会合ではハッキング派と反対派との間の激しい隔たりがあった。同年11月17日の会合ではハッキング派が優位に立ち、この問題を議論した。FAの主事エベネーザー・コッブ・モーリーによって起草されたFAの規則の初稿はこの好みを反映し、今日ではサッカーよりもラグビーに近いと見なされるであろう多くの要素を含んでいる。

11月24日の会合では、「ハッキング派」が再び辛うじて過半数を占めた。しかしながら、この会合で、モーリーはその年の10月に出版されキャリングとハッキングを禁止したケンブリッジ大学のフットボール規則に出席者の注意を向けさせた。ケンブリッジルールの議論とこの問題に関してケンブリッジと意思疎通をはかることを勧める提案によって、規則の最終的な「調停」は12月1日の会合に先延ばしとなった[37]。ラグビー式フットボールを支持する多くの代表者はこの追加会合に出席せず[38][39]、結果としてキャリングとハッキングは禁止された[39]。ブラックヒースと他のハッキング支持派クラブはFAを脱退した[注釈 7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:239 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef