サセックス王国
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発見された当時の墓からは、協定による入植であったという仮説を支持する証拠も見つかっている[13]。例えば、イースト・サセックスビショップストーンのルーカリー・ヒル (Rookery Hill) における墓地の発掘では、サクソン人の間で広く用いられていたクォイト (Quoit) 型のバックルなど、後期ローマ、ないしは、ブリタンニアで製造されたローマ風の金属製品が出土しており、周辺への入植が5世紀はじめに遡ることが示された[14]。これに続く発掘調査によって、サクソン人の建物が認められる地域が、相当広範囲に及ぶことが明らかになった。発掘された22件の建物のうち、3件は竪穴建物(sunken huts)で、17件は1本ごとの柱穴を長方形に配しており、1件は柱穴の間が横木を入れる溝でつながれ、残りの1件は8つの大きな柱穴を構えたものであった[14]

ハイダウンの墓地は、ローマ時代に退蔵された1997年に発見された場所から、2キロメートルほどしか離れていない[15]。パッチングの財宝 (Patching hoard) として知られるようになったこの退蔵品の中には、最も新しいもので461年に鋳造された硬貨が含まれていた。こうしたことから、ハイダウンの墓地は、パッチングで財宝が埋められた頃に、サクソン人たちによって使用されていたものと推測されている[15]。5世紀にハイダウンを墓地として使用していた入植地がどこだったのかは確定されていないが、サリー・ホワイト (Sally White) は、パッチングとハイダウンを結びつける何らかのつながりがあったと考えており、M・G・ウェルチ (M.G.Welch) は、当地にあったローマ人やブリトン人のコミュニティがサクソン人の傭兵たちを雇っていたのではなかいかとする説を提唱している[11][15]サセックス王国の位置(図の右下の紫色の範囲)
7世紀

491年以降、ウェセックスのケオルウルフ (Ceolwulf of Wessex) が南サクソン人と戦ったことを『年代記』が記録する607年まで、サセックスについて書かれた歴史記録は残されていない[16]

681年、セルゼー修道院 (Selsey Abbey) の創設者で、故地を追われていたノーサンブリアの聖ウィルフリッド (St Wilfrid of Northumbria) が南サクソン人の王国へやって来て、5年間当地に留まり、福音を伝え、人々に洗礼を与えた[17]ベーダによると、サセックスの王エゼルウェルホ (英語: Aethelwalh / 古英語: Adelwealh) は、ワイト島とミオンワラ (Meonwara) の地を譲ってくれたウルフヘレの勧めに従い、マーシアで既に洗礼を受けていた[17]ウィルフリッドに土地の勅許を与えるキャドワラ。16世紀の画家ランベルト・バルナルディ (Lambert Barnardi) の作。

ウィルフリッドが当地へやって来たとき、南サクソン人たちの土地は飢饉に見舞われていた[17]。ウィルフリッドが当地の民衆に魚の穫り方を教えたところ、ウィルフリッドの教えに感銘を受けて、「大勢が (en masse)」洗礼を受けることに同意した[17]。洗礼を執り行うことになった日に、雨が「乾いた大地」に降り注ぎ、飢饉は終わりを告げたという[17]

エゼルウェルホは、87ハイドの土地と王領の荘園(ヴィル、Vill)ひとつをウィルフリッドに与え、セルゼー修道院を建てさせた[17]。この修道院は、やがて南サクソン司教領(South Saxon bishopric:後のセルゼー司教 (Bishop of Selsey))の司教座となり、ノルマン征服の後、1075年のロンドン公会議 (Council of London) の決定によってチチェスターに司教座が移されチチェスター司教 (Bishop of Chichester) が設けられるまで存続した[17][18]

聖ウィルフリッドの到来後、程なくして、西サクソンから追放されていた王子キャドワラ(後のウェセックス王)がサセックス王国を蹂躙し、エゼルウェルホを殺害した[19]。キャドワラは、エルダーマン (Ealdorman) としてエゼルウェルホの跡を継いだ2人、ベルトゥン (Berhthun) とアンドゥン (Andhun) によって、サセックス王国から駆逐された[19]686年、南サクソン人たちは、ケント王国の内紛に乗じ、王の甥であるエドリック (Eadric) を支援し、王ホロスヘア (Hlothhere) に攻撃を仕掛けたが、程なくしてベルトゥンは殺され、サセックス王国はしばらくの間、ウェセックス王となっていたキャドワラの支配下に置かれた。

その後の南サクソンの諸王については、一部の勅許 (Anglo-Saxon charters) などを除いて、ほとんど何も伝わっていない。

692年には、ノスヘルム(Nothelm、Nodhelm:別名、ヌナ、Nunna)という王が、自分の姉(ないしは妹)に勅許を与え、もうひとりの王ワット (Watt) がその証人になったとされている[20]

アングロサクソン年代記』によると、ヌナはウェセックス王イネの親族であり、710年に、両者は共同して、ブリトン人の王ゲライント(Geraint)と戦ったという[21]。ベーダによれば、サセックスは多年にわたってイネの支配下にあったという[22]
8世紀

775年の年号が入ったある勅許の記述によると、元セルジー修道院長の司教エドベルト(Eadberht of Selsey、705年ないし709年ころ - 716年ころ)が、王ヌナから土地を安堵され、もうひとりの王ワットが証人になった、とされている。しかし、この勅許は、今日では10世紀か11世紀はじめに作られた偽物であると考えられている[23][24][25]

これとは別の、本物と見なされている勅令には、アラン川 (River Arun) の河谷にある現代のバーファム (Burpham) に近いある土地をめぐる一連の取引が記録されている[26][27]。記録は、ペパリング (Peppering) の土地を王ヌナからバーホフリス (Berhfrith) に、おそらくは修道院付きの教会堂を設けるために、安堵したところから始まっている[28]。バーホフリスはこの土地をエオーラ (Eolla) に譲り、エオーラはそれをウルフヘア (Wulfhere)に売り渡した。この土地はその後、ベオバ (Beoba) のものとなり、ベオラ (Beorra) とエッカ (Ecca) に受け継がれた[28]。結局、 王オズムンド (Osmund) が、側近(コウミーズ、comes)のエラ (Erra) からこの土地を買い上げ、それをティドバーグ (Tidburgh) という名の宗教関係者の女性に与えた[28]。この勅令には、日付はないが、関係する人物たちの名が現れる他の勅令などを参照することで、諸々の取引のおおよその年代を知ることができる[28]。エオーラが、バーホフリスから得た土地をウルフヘアへ売った取引の際(705年ころ、ないし716年ころ)、ヌナの署名の下には、オスリック (Osric) なる人物が副署しており、おそらくは共同統治者であったものと考えられている[29]。このほかに証人としてオスリックに続いて署名しているのはエドベルトとエオーラで、この2人は同名の聖職者たちと認められる[29]

ヌナのものとして残されている最後の勅令は、717年を誤って714年と記したもので[30]、もうひとりの王エゼルスタン (Aethelstan、Adelstan) が証人となっている。

アングロサクソン年代記』は、「722年にエルドベルト (Ealdberht) がサリーとサセックスへ向かい、イネが南サクソン人たち相手に戦った。」と記している。

その少し後には、エゼルベルト (Aethelbert、Adelberht) がサセックス王となったが、この王は残された勅令によってしか知られていない。エゼルベルトの統治期間については、日付のないエゼルベルトの勅令のひとつに、733年からセルジー司教となっていたシゲファース (Sigeferth) が証人となっていることから、シゲファースと同時期であったことしか分かっていない[31]


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