ルフェーブルのその後の促進活動は、サックスの普及に極めて大きな意味を持った。1880年代の終わり頃から、ルフェーブルは金管楽器メーカーのC.G. コーン(英語版)に助言を求め、高価で、手に入りにくく、機械的に信頼性の低いヨーロッパの楽器に代わる改良型のサクソフォーンを開発し、アメリカ市場向けに生産を開始した。1890年代初頭には、コーンとその分社であるブッシャー・マニュファクチャリング・カンパニー(英語版)でサクソフォーンの定期的な生産が開始され、サクソフォーンがアメリカで飛躍的に入手し易くなった。ルフェーブルは、音楽出版者カール・フィッシャー(英語版)と協力して、サクソフォーンのためのトランスクリプション、編曲、およびオリジナル作品を配布したり、コーン音楽院と協力して、アメリカでのサクソフォーン教育の発展に尽力した。ルフェーブルとコーン社、フィッシャーとの関係は20世紀の最初の10年まで続き、フィッシャーは死後もルフェーブルの作品を新たに編曲したものの出版を続けた[22]。 サクソフォーンはクラシック音楽の世界では重要性が取るに足らないままで、主に目新しい楽器とみなされていたが、20世紀初めの数十年間にはサクソフォーンのための多くの新しい音楽的ニッチが確立された。世紀の変わり目には、ヴォードヴィルやラグタイム楽団での初期の使用が、ダンス楽団、そして最終的にはジャズでの使用の基礎を築いた。アメリカではサクソフォーンの市場が拡大するにつれ、製造業も成長した。1905年から1912年にかけてマーチン・バンド・インストゥルメント・カンパニー
20世紀初頭の成長と発達
よりダイナミックでより技術的に要求される演奏スタイルにサクソフォーンが使用されたことが、キイ装置と音響設計の改善の動機を与えた。初期のサクソフォーンは、アルトやより大型のサクソフォーンに必要な2つのオクターブ・ベントを制御するために、左手の親指で操作する2つの独立したオクターブキイを持っていた。世紀の変わり目のキイ装置の大きな進歩は、左手の親指を使って1つのオクターブキイで2つのオクターブ・ベントを操作する機構の開発であった。キイ装置の人間工学に基づいた設計は、1920年代から1930年代にかけて急速に進化した。1920年代には、ハイEとFの代替運指に対応したフロントF機構とスタックリンクG♯キイアクションが標準となり、その後、G♯とベルキイを制御する左手テーブルキイ機構の改良が行われた。1920年代から1930年代にかけての新しいボア設計は、優れたイントネーション、ダイナミックレスポンス、音色の質の向上の探求からもたらされた。1920年代は、ブッシャーのストレート・アルトおよびテナー、キング・Saxello・ソプラノ、F管のC.G. コーン・メゾ・ソプラノ・サクソフォーン、イングリッシュホルンとのハイブリッドであるConn-O-Saxサクソフォーンといった設計の実験の時代でもあった。 サックスの現代的な配置設計は1930年代から1940年代にかけて登場し、まずバリトンではC.G. コーン
現代サックスの登場
ハイF♯キイは、バランスド・アクション・モデルのオプションとして最初に導入されたが、初期の実装ではイントネーションに悪影響を与えると認識されていたため、受け入れられるまでに数十年を要した[23]。
使用香港でサクソフォーンを演奏する米海軍第七艦隊音楽隊の水兵。
サクソフォーンの音響的性格から、クラシックのみならずジャズやポップス、映画や劇伴のサウンドトラックで使用されることも多い。
西洋音楽ではその音色と機能性を活かした独奏曲や、管弦楽への使用例が特に近代音楽以降、多く見られるようになった。フランス語圏は比較的早期にこの楽器を好んだようだが、ドイツ語圏は戦後まで遅れた。 サックスは最初に軍楽隊で人気を博した。ドイツでは当初は無視されていたが、フランスやベルギーの軍楽隊はいち早くこの楽器をアンサンブルに取り入れた。ほとんどのフランスやベルギーの軍楽隊は少なくとも、E♭バリトン、B♭テナー、E♭アルト、B♭ソプラノから成る4人組のサクソフォーンを編成に含んでいる。これらの4つの楽器は、サクソフォーンの中で最も人気があることが示されてきた。E♭コントラバスとB♭バスは通常、非現実的な大きさで、E♭ソプラニーノは力強さが不十分であると考えられている。イギリスの軍楽隊では、最低でも2人のサックス奏者をアルトとテナーに配置する傾向がある[要出典]。 サクソフォーンはコンサート・バンドに導入され、大抵はE♭アルトサクソフォーン、B♭テナーサクソフォーン、E♭バリトンサクソフォーンが求められる。
軍楽隊とクラシック音楽