サクソフォン
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サクソフォーンはベルギーの楽器製作者、フルート奏者、クラリネット奏者であったアドルフ・サックスによって1840年頃に設計された[3]ディナン生まれで元々はブリュッセルを拠点としていたサックスは、楽器事業を興すために1842年にパリへ移った。サクソフォーンに取り組む前、サックスはバスクラリネットのキイ装置と音響を改善し、低音域を拡張することによっていくつかの改良を行った。サックスはオフィクレイド(木管楽器と同様のキイを持つ低音大型円錐形金管楽器)の製作者でもあった。これら2つの楽器での経験によって、最初のサクソフォーンを製作するために必要な技能と技術を磨くことができた。

バスクラリネットを改良した仕事の副産物として、サックスは金管楽器の遠達性(プロジェクション)と木管楽器の俊敏性を併せ持つ楽器の開発を始めた。サックスは、オーバーブローイング(英語版)で12度音程が上がるクラリネットとは異なり、オクターブでオーバーブローイングすることを望んだ。オクターブでオーバーブローイングする楽器は、両方の音域で同一の運指を有する。

サックスはシングルリードマウスピースと真鍮製円錐形胴管を持つ楽器を作り上げた。1840年代初頭には複数のサイズのサクソフォーンを製造しており、1846年1月28日にこの楽器について15年間の特許を申請し、取得した[16]。この特許は、ソプラニーノからコントラバスまで基本設計の14の型(2つのカテゴリーにそれぞれ7種類)を網羅していた。限られた数のFとCの調性を持つ楽器がサックスによって生産されたが、E♭とB♭の調性を持つ型がすぐに標準となった。当初はすべての楽器で、高音部譜表の五線の下のBから五線の上の3本目の加線の半音下のE♭までの音域が書かれており、それぞれのサクソフォンの音域は2オクターブ半であった。サックスの特許は1866年に失効した[17]。その後、膨大な数の他の楽器製作者がサクソフォーンの設計とキイ装置に自身の改良を実装した。

左手はトリエベール第3型オーボエ、右手はベーム・クラリネットを参考にしたサックスの原初のキイ装置は、あまりに単純で、特定のレガートパッセージや広い音程を指で演奏するのが極めて困難であった。このシステムは後に追加キイ、連結機構、いくつかの音程をより簡単にするための代替運指などによって発展していった。

サクソフォンの開発の初期には、上のキイ音域はE、さらに五線の上のFまで拡張された。1880年代、サクソフォーンのための楽譜はローBからFの音域で書かれた。1887年、ビュッフェ・クランポン社がベルの延長と音域をB♭まで半音下に拡張するための追加キイの追加に関する特許を取得した[18]。この拡張は現代のほとんどの設計において標準となっている。バリトンサクソフォーンは例外でさらにローAまで音域が拡張された。最高音がFの高音域は、現代サクソフォーンでアルティッシモF♯が一般的となるまでの1世紀近くにわたって標準であり続けた。

1840年代と1850年代、サックスの発明は小さなクラシックアンサンブル(サクソフォーンアンサンブルと混合アンサンブルの両方)においてや、独奏楽器として、またフランスとイギリスの軍楽隊において使われるようになった。サクソフォーンの教則本が出版され、サクソフォーン指導がフランス、スイス、ベルギー、スペイン、およびイタリアのコンセルヴァトワール(音楽院)で提供された。1856年までに、ギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団は8本のサクソフォーンを編成に含んでいた。サクソフォーンは管弦楽曲においても実験的に使われたが、オーケストラの楽器として広く使われるようにはならなかった。1853年から1854年に、ルイ・アントワーヌ・ジュリアンのオーケストラは米国コンサートツアーでソプラノサクソフォーンを一員として加えた[19]

ヨーロッパのクラシック音楽界からの関心と支持を受けていた初期の時期を経て、19世紀終わり頃には彼らのサクソフォーンへの関心は薄れていった。パリ音楽院では1870年から1900年までサクソフォーンの教育が中断され、その間クラシックのサクソフォーンレパートリーは停滞した[16]。しかしこの時期に、第22連隊楽団のリーダーであるパトリック・ギルモアと、オランダからの移住者であり、サックスと家業の関係を持つサクソフォーン奏者のエドワード・A・ルフェーブル(英語版)の努力によって、サクソフォーンがアメリカで普及し始めた。ルフェーブルは、イギリスのオペラ団のクラリネット奏者として着任した後、1872年初頭にニューヨークに移住した。ギルモアはその夏、ボストンで開催された世界平和記念国際音楽祭(英語版)を主催した。ギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団が演奏を行い、ルフェーブルはその催し物のためのグレート・フェスティバル・オーケストラのクラリネット奏者として参加した[20]。1873年秋、ギルモアはギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団の影響の下で第22連隊楽団を再編成し、前年にニューヨークでサクソフォーン奏者としての名声を確立していたルフェーブルを採用した。ギルモアの楽団はすぐにソプラノ・アルト・テナー・バリトンのサクソフォーン・セクションを編成し、サクソフォーン・セクションは四重奏団としても演奏を行った。ギルモアとルフェーブルの連携は1892年にギルモアが亡くなるまで続いたが、その間、ルフェーブルは様々な規模や楽器編成のより小規模なアンサンブルで演奏し、作曲家と協力してサクソフォーンのための軽快なクラシックやポピュラーのレパートリーを増やした[21]

ルフェーブルのその後の促進活動は、サックスの普及に極めて大きな意味を持った。1880年代の終わり頃から、ルフェーブルは金管楽器メーカーのC.G. コーン(英語版)に助言を求め、高価で、手に入りにくく、機械的に信頼性の低いヨーロッパの楽器に代わる改良型のサクソフォーンを開発し、アメリカ市場向けに生産を開始した。1890年代初頭には、コーンとその分社であるブッシャー・マニュファクチャリング・カンパニー(英語版)でサクソフォーンの定期的な生産が開始され、サクソフォーンがアメリカで飛躍的に入手し易くなった。ルフェーブルは、音楽出版者カール・フィッシャー(英語版)と協力して、サクソフォーンのためのトランスクリプション編曲、およびオリジナル作品を配布したり、コーン音楽院と協力して、アメリカでのサクソフォーン教育の発展に尽力した。ルフェーブルとコーン社、フィッシャーとの関係は20世紀の最初の10年まで続き、フィッシャーは死後もルフェーブルの作品を新たに編曲したものの出版を続けた[22]
20世紀初頭の成長と発達

サクソフォーンはクラシック音楽の世界では重要性が取るに足らないままで、主に目新しい楽器とみなされていたが、20世紀初めの数十年間にはサクソフォーンのための多くの新しい音楽的ニッチが確立された。世紀の変わり目には、ヴォードヴィルラグタイム楽団での初期の使用が、ダンス楽団、そして最終的にはジャズでの使用の基礎を築いた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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