サウジアラビア
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アラビア文字による正式名称は???????????? ??????????? ??????????????(翻字: al-mamlakah al-?arab?yah al-su??d?yah(実際の発音はal-mamlakatu-l-?arab?yatu-s-su??d?yah), アル=マムラカ・アル=アラビーヤ・アッ=スウーディーヤ(実際の発音はアル=マムラカトゥ・ル=アラビーヤトゥ・ッ=スウーディーヤ、簡略発音はアル=マムラカ・ル=アラビーヤ・ッ=スウーディーヤ  音声))であり、「サウード家のアラビアの王国」を意味する。通称??????????????(al-su??d?yah, アッ=スウーディーヤ)。

公式の英語表記は Kingdom of Saudi Arabia(キングダム・オヴ・サウディ/ソーディ・アレイビア)。通称 Saudi Arabia([?sa?di/?s??di ??re?bi?])。国民・形容詞はSaudi。日本語表記はサウジアラビア、サウジアラビア王国で、サウディアラビアとも表記される[7]。サウジと略して呼ばれることもある。漢字表記は沙地亜剌比亜もしくは沙特阿拉伯、1文字での表記は「沙」。

リヒテンシュタインと同様に、国際連合加盟国でも非常に珍しい「統治王家の名前」を国名にしている国家である。
歴史詳細は「サウジアラビアの歴史」を参照
第一次サウード王国の支配

1744年サウード王家は中央アラビアのナジュド地方に勃興(第一次サウード王国)した。この年、リヤドの近くにあるディルイーヤの支配者ムハンマド・イブン・サウードは宗教指導者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブと盟約を結び、新たな国家体制をつくった。これが今日のサウジアラビア王朝の統治の基礎となっている。
オスマン帝国などへの抗争

続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトオスマン帝国やラシード家(英語版)のジャバル・シャンマル王国と争い興亡を繰り返した[注釈 1]現在のサウジアラビアの建国者アブドゥルアズィーズ国王。1945年ヤルタ会談の帰路にあったフランクリン・ルーズベルト米大統領と船上会談を行った。
ナジュド及びハッサ王国の支配

第三次サウード王国に当たる現在のサウード国家は、1902年に僅か22歳のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(サウジアラビア王国の初代国王)がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをラシード家から奪回し、ナジュドで建国したものである(ナジュド及びハッサ王国)。
勢力拡大

アブドゥルアズィーズは、1913年からハサー1921年のハーイル征服(英語版)までにカティーフナジュドの残り(ナジュド・スルタン国)を制圧した。

一方、1915年にメッカ(マッカ)の太守(シャリーフ)であったハーシム家フサイン・イブン・アリーが、イギリス軍のトーマス・エドワード・ロレンスの協力を得てアカバを占領し、その後ダマスカスに進軍してヒジャーズ王国を建国した(アラブ反乱)。アブドゥルアズィーズは、1926年までにこのヒジャーズ王国を制圧(サウード家のヒジャーズ征服(英語版))し、1926年1月8日、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となった。
サウジアラビア王国の成立

つづく1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。1927年5月20日にはジッダ条約によってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認めて、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立した。さらに1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュド、ヒジャーズを統一してサウジアラビア王国が成立した。その後1934年には、サウジ・イエメン戦争がおこりイドリシ朝アシール首長国(英語版)を併合した。
経済の発展

しかし、アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済には及ばなかった。1933年サウジアラムコが設立され、1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで国は貧しい状態だった(サウジアラビアの石油産業の歴史(英語版))。油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。
王家の失脚

アブドゥルアズィーズは、拡大した一族ネットワークに依拠する他の地域の絶対的支配者たちと対する難しさに配慮して王位継承の規定を図った。1953年にアブドゥルアズィーズが崩御し、次男サウードが父の死を受けて第2代国王に即位したものの、1960年代にサウード国王の経済的失政によって王国は危機に陥り、またエジプトナーセル大統領からの地域的な難問への対応にも失敗してしまった。その結果、1964年にサウード国王は退位させられ、代わって異母弟のファイサルが第3代国王として即位した。

1973年第4次中東戦争に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアをはじめとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。

1974年リチャード・ニクソン米大統領とヘンリー・キッシンジャー国務長官がサウジアラビアを訪問してファイサル国王らとの会談でドル建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を結んでオイルダラーが確立された[8][9][10][11][12]

1975年、家族間抗争が一因でファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサーイド王子により暗殺された。その後、やはり異母弟のハーリドが王位を継ぎ第4代国王となった。
イスラム過激派への配慮

1979年イラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。

1982年、ハーリド国王が崩御して異母弟のファハド(「スデイリー・セブン」の一人)が第5代国王に即位する。


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