日本では、1930年代前半(昭和初期)にトーキーに移行し始めたが、剣戟映画を中心に1938年(昭和13年)まではサウンド版を含めたサイレント映画が製作・公開されていた[4]。また、トーキー・サウンド版定着初期はトーキー・サウンド版作品を上映できる設備がまだ整っていない映画館も多く、その映画館向けにトーキー・サウンド版作品を無声映画仕様に編集して上映していた。
歴史ギネス世界記録が認定した世界初の映画『ラウンドヘイ・ガーデン・シーン』(1888年)の1カット。巨大なセットが組まれた『イントレランス』(1916年)。詳細は「映画史」を参照
世界最初の映画は、1888年(明治21年)にルイ・ル・プランスが生み出した。オークウッド・グランジ庭園を歩き回る人々を撮影した上映時間2秒の作品で、タイトルは『ラウンドヘイ・ガーデン・シーン』 Roundhay Garden Scene である[5]。モーション・ピクチャー(活動写真)の芸術・技術は、「サイレント期」と呼ばれる時代に全面的に成熟し、その後1920年代末に、発声映画(トーキー)にとって替わった。多くの映画学者らは、新しく到来した「トーキー」に監督や俳優、スタッフたちが適応するまでの数年間、映画の美的クォリティは減少したと指摘している[6]。
サイレント映画の映像美、とりわけ1920年代に製作された作品のクォリティは極めて高度である。しかしながら、一般には、原始的なものであり現代人の鑑賞に堪える代物ではないとの誤解が広く存在する。誤った速度で映写されるなどの技術的エラー(サイレント映画標準の16fpsで撮影[注 1]されているにもかかわらず24fpsで映写される等)や、オリジナルプリントの消失による質の低いデューププリントやフィルム断片しか現存していないなどの保存状態の悪さに由来する誤解である[6]。
1927年(昭和2年)に世界初の長編商業トーキーとされる『ジャズ・シンガー』が出現するまでは、ほとんどがサイレント映画であった。音声がないという制約から様々な映画的テクニックが開発され、それは現代の映画にも引き継がれている。登場人物のせりふは字幕を挿入することで表現したが、俳優の演技は大袈裟なものにならざるを得なかった。
上映に際してはオーケストラやバンドによる音楽伴奏が付くことが多かった。日本では、上映中の映画の進行に合わせて、その内容を解説する活動弁士(活弁士)が活躍し、徳川夢声のような人気弁士も現れた。
トーキーが実用化されてからは、サイレント映画に音楽のサウンドトラックを付加したものが上映され、これをサウンド版という。トーキー以後の時代にも、サイレント映画(多くは厳密にはサウンド版)として製作された作品も存在する。ジャック・タチ、メル・ブルックス、アキ・カウリスマキらが、「その後のサイレント映画」を監督した映画作家である。
おもなサイレント映画「Category:サイレント映画」も参照
外国映画
月世界旅行(1902年、フランス、ジョルジュ・メリエス監督)
大列車強盗(1903年、アメリカ、エドウィン・S・ポーター監督)
アントニーとクレオパトラ(1913年、イタリア、エンリコ・ガッツォーニ監督)
カビリア(1914年、イタリア、ジョヴァンニ・ペストローネ(イタリア語版)監督)
レ・ヴァンピール 吸血ギャング団(1915年、フランス、ルイ・フイヤード監督)
國民の創生(1915年、アメリカ、D・W・グリフィス監督)
チート(1915年、アメリカ、セシル・B・デミル監督)
イントレランス(1916年、アメリカ、D・W・グリフィス監督)
散り行く花(1919年、アメリカ、D・W・グリフィス監督)
カリガリ博士(1919年、ドイツ、ロベルト・ヴィーネ監督)
東への道(1920年、アメリカ、D・W・グリフィス監督)
霊魂の不滅(1921年、スウェーデン、ヴィクトル・シェストレム監督・主演)
キッド(1921年、アメリカ、チャールズ・チャップリン監督・主演)
愚なる妻(英語版)(1922年、アメリカ、エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督)
吸血鬼ノスフェラトゥ(1922年、ドイツ、F・W・ムルナウ監督)