このほかにもサイパン島には海軍部隊の司令部が多く置かれ、第六艦隊司令長官の高木武雄中将、第1連合通信隊司令官の伊藤安之進少将、第3水雷戦隊司令官の中川浩少将、南東方面航空廠長の佐藤源蔵少将ら高級指揮官が集中しており、陸軍の高級将官も多数いる中で、のちの戦闘で指揮権の混乱が生じている[31]。
2月29日、アメリカ軍とオーストラリア軍がアドミラルティに侵攻してきた。大本営は、アメリカ軍がアドミラルティに侵攻してきたことで、マリアナや西カロリンに侵攻してくる危険性は一旦は遠のいたが、マリアナに侵攻してくる場合には、中間地点を跳梁素通りしていきなり侵攻してくる可能性があると、今後のアメリカ軍の戦略を正確に予測した。そこで、西部ニューギニアに派遣予定であった第14師団を急遽マリアナに送って防備を固めることとし、3月20日に第31軍の戦闘序列に加えた[32]。しかし、3月30日にアメリカ軍機動部隊によるパラオ大空襲があり、パラオが基地機能を失うような大打撃を被ると、大本営によるアメリカ軍の侵攻方向の判断がまた揺らぐこととなり、結局はマリアナより先にパラオや西ニューギニアに侵攻してくる可能性が高いという判断に至った。この判断によって、わずか10日前にマリアナ進出を命じた第14師団を急遽パラオに送ることとし、その代わりに後詰として4月7日になって第43師団(師団長:斎藤義次中将)を日本本土よりマリアナに送ることとした[33]。しかし、この決定の時点では第43師団は未だ動員すらされておらず、準備や訓練で出発まで1ヶ月以上を要することとなり、この遅れがのちのサイパンの防衛準備に重大な影響をもたらすことになる[34]。
パラオ大空襲に伴い海軍乙事件が発生し、古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職したが、古賀は新Z号作戦を策定しており、その計画によれば、マリアナ諸島?西カロリン?西部ニューギニアを結ぶ三角地帯に邀撃帯を設けて、2方面軍で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうというものであった。古賀殉職後もこの作戦計画は進められ、アメリカ軍とオーストラリア軍がニューギニア北岸のホーランジアに侵攻してくると(ホーランジアの戦い)、大本営は三角地帯の防備を強化して、一大反撃を加える作戦構想を行うこととし、軍令部が中心となって5月3日には「連合艦隊ノ当面準拠スベキ作戦方針」によって決戦構想の「あ号作戦」が策定された[35]。決戦地の選定にあたって、連合艦隊はアメリカ軍の侵攻がパラオとマリアナのどっちが先かはなかなか判断できなかったが、結局は大本営と同様にパラオが先という判断となった[36]。これには、軍令部航空部員源田実大佐によれば「敵の来攻方向はフィリピンを目標とする西部ニューギニアと西カロリンであり、ダグラス・マッカーサーとチェスター・ニミッツの兵力が同時に別の方向に来攻するとは考えず、ニミッツの艦隊はマッカーサーの攻略部隊に応じるであろうと判断していた」という一方的な判断と[37]、連合艦隊の泊地であったリンガ泊地や、「あ号作戦」の前進基地と想定していたタウィタウィから比較的近く、またパラオ大空襲で多数のタンカーを喪失していたことから、なるべく油田地帯に近いパラオを含む西カロリンが決戦地として都合がいいとする、日本軍の状況に基づく主観的な判断に基づくものであった[35]。そのため、マリアナにアメリカ軍が侵攻してきた場合のことはあまり想定されておらず、連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将によれば、「パラオとサイパンいずれに来ようとも万全の備えはとっていた」としているが[36]、実際には基地航空部隊の対応方針は決めていたものの、艦隊の作戦方針については具体的には決められていないなど中途半端なものであった[38]。
連合艦隊はあ号作戦のため、第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)を新設すると共に基地航空隊の第一航空艦隊を中部太平洋に配置した[39]。