サイパンの戦い
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また、1944年2月17日のトラック島空襲や、それに続くマリアナへの空襲もあり、いよいよ絶対国防圏が連合軍の脅威にさらされるなか、その中核であるはずのマリアナには陸軍部隊はおらず、この状況を憂慮した昭和天皇が「今後は遅れをとらぬよう後方要線を固めよ」と陸海軍両総長に異例の苦言を呈したため、ようやくマリアナの防備態勢強化が進められることとなった[21]。大本営は第13師団に代わる部隊の選定をしていたが、関東軍から第29師団 (師団長:高品彪中将)を派遣することを決定[22]、さらに、戦局の緊迫化を理由に内閣総理大臣陸軍大臣参謀総長の三職を兼ねていた東條英機の命で、1944年2月25日に第31軍(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)を編成して、マリアナ諸島やパラオを含む西カロリンや小笠原諸島の防衛を担当させることにした[23]。昭和天皇は小畑の出発にあたって「マリアナ諸島は日本の運命を決する最後の戦略線である。日本は全力をもってこれを確保する必要がある。軍司令官は全日本国民の期待に応えるため最後の御奉公をせよ」という言葉をかけている[23]

第29師団は満州から釜山に移動し、2月24日には3隻の輸送艦に分乗してまずはサイパンに向けて出発した。師団長の高品は大本営から「2個師団での防衛を前提とした師団配備」「配備の重点はグアムとせよ」という命令を受領しており、その命令に基づく戦力配置を検討していた[24]。2月29日には大東島沖200qを輸送船団は航行中であったが、歩兵第18連隊と師団直轄部隊が乗船していたS型貨物船「崎戸丸」がアメリカ潜水艦トラウト」の雷撃で沈没、「トラウト」も護衛の駆逐艦の爆雷攻撃で撃沈されたものの、乗船していた約4,000人のうち2,280人が戦死するとともに多くの装備が海没するなど大損害を被ってしまい[25]、高品は当初の計画を変更して、テニアンに向かう予定であった歩兵第18連隊をサイパンで戦力回復させることとした[24]。その後も第31軍の隷下部隊として、関東軍や日本本土から旅団師団規模の部隊を松輸送でマリアナやパラオなど太平洋正面の島嶼に続々と送り込まれた。

海軍もマーシャルの失陥という事態を受け、トラックに司令部のある第4艦隊では中部太平洋全域の指揮をするのは困難と判断し、陸軍の第31軍編成と並行して、太平洋方面防衛を統括する中部太平洋方面艦隊を編成し、司令官には南雲忠一中将が親補され、司令部はサイパンに置かれた[26]。指揮下には第4艦隊と第十四航空艦隊があったが、艦隊といっても軍艦は殆どなく、航空戦力についても、のちの「あ号作戦」にて、第一航空艦隊に編入されることとなり、実質的には陸上部隊であった。大本営は今までの痛い経験から、陸海軍の統一指揮体制の重要性を痛感しており、第31軍はマリアナ方面の防備を担当する海軍の連合艦隊司令長官の指揮下に入って、中部太平洋方面艦隊の指揮を受ける形となった[27]。陸軍の地上部隊が海軍の指揮下に入るのは、建軍以来初めてのことで日本陸軍としては大きな譲歩であり、東條も南雲を首相官邸に招くと「何とかサイパンを死守して欲しい。サイパンが落ちると、私は総理をやめなければならなくなる」と要請している[28]。しかし、南雲の参謀副長には陸軍の田村義冨少将が就き、また地上戦の戦闘指揮は各師団長が行うという諒解もあっており、南雲の陸軍部隊への指揮権は形式的なものであった[29]。実際に南雲が作戦について何らかの命令を出すことは殆どなく、酒宴などではいつも、植田国境子作詞作曲の大正時代の歌謡曲「白頭山節」の歌詞を「挙がる勝鬨、真珠湾」などと一部変えた替え歌を口ずさむなど、かつての真珠湾攻撃の栄光に浸っている様子であったという[30]

このほかにもサイパン島には海軍部隊の司令部が多く置かれ、第六艦隊司令長官の高木武雄中将、第1連合通信隊司令官の伊藤安之進少将、第3水雷戦隊司令官の中川浩少将、南東方面航空廠長の佐藤源蔵少将ら高級指揮官が集中しており、陸軍の高級将官も多数いる中で、のちの戦闘で指揮権の混乱が生じている[31]

2月29日、アメリカ軍オーストラリア軍アドミラルティに侵攻してきた。


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