サイパンの戦い
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

絶対国防圏の中核であるマリアナには第13師団、連合艦隊の根拠地であるトラック環礁に第52師団[15]、またアメリカ軍が侵攻してきた島に逆上陸を敢行する専門部隊海上機動第1旅団がマーシャルに配置され[16]、他にもウェーク島ポナペ島クサイ島など太平洋諸島に部隊が送られた[17]。陸軍部隊が増援として各地に送られている間、連合艦隊はニューギニア方面で基地航空隊による航空攻勢「ろ号作戦」を発令したが見るべき成果もなく、アメリカ軍の侵攻は全く衰えずに、1943年11月にはギルバートに侵攻し、タラワの戦いマキンの戦いでギルバートを攻略してしまった[18]

ろ号作戦の惨敗とギルバートの失陥で絶対国防圏前方での決戦思想が後退した海軍に対して、今度は陸軍が1943年(昭和18年)年末から年始にかけて、参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐の統裁によって行われた大規模な兵棋演習「虎号兵棋」によって、1944年(昭和19年)は「東守西攻」の年とする方針を決定した。これは東の太平洋方面では絶対国防圏で持久作戦をとりつつ、西の中国大陸で大規模な攻勢を行うというものであった[19]。この方針転換によって中国大陸では日本陸軍建軍以来最大級の作戦となる「大陸打通作戦」(一号作戦)が実施されることとなり、マリアナに向けて派遣予定であった第13師団の派遣は中止された。このように統一感のない混迷した作戦指導によってマリアナの防備態勢構築はさらに遅延していくことになった[20]
「あ」号作戦計画南雲中将以下海軍守備隊幹部

迷走する日本軍の作戦方針に対してアメリカ軍の侵攻は急であり、1944年2月にはかつて連合艦隊が決戦場と主張していたマーシャルに侵攻しこれを占領してしまった。また、1944年2月17日のトラック島空襲や、それに続くマリアナへの空襲もあり、いよいよ絶対国防圏が連合軍の脅威にさらされるなか、その中核であるはずのマリアナには陸軍部隊はおらず、この状況を憂慮した昭和天皇が「今後は遅れをとらぬよう後方要線を固めよ」と陸海軍両総長に異例の苦言を呈したため、ようやくマリアナの防備態勢強化が進められることとなった[21]。大本営は第13師団に代わる部隊の選定をしていたが、関東軍から第29師団 (師団長:高品彪中将)を派遣することを決定[22]、さらに、戦局の緊迫化を理由に内閣総理大臣陸軍大臣参謀総長の三職を兼ねていた東條英機の命で、1944年2月25日に第31軍(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)を編成して、マリアナ諸島やパラオを含む西カロリンや小笠原諸島の防衛を担当させることにした[23]。昭和天皇は小畑の出発にあたって「マリアナ諸島は日本の運命を決する最後の戦略線である。日本は全力をもってこれを確保する必要がある。軍司令官は全日本国民の期待に応えるため最後の御奉公をせよ」という言葉をかけている[23]

第29師団は満州から釜山に移動し、2月24日には3隻の輸送艦に分乗してまずはサイパンに向けて出発した。師団長の高品は大本営から「2個師団での防衛を前提とした師団配備」「配備の重点はグアムとせよ」という命令を受領しており、その命令に基づく戦力配置を検討していた[24]。2月29日には大東島沖200qを輸送船団は航行中であったが、歩兵第18連隊と師団直轄部隊が乗船していたS型貨物船「崎戸丸」がアメリカ潜水艦トラウト」の雷撃で沈没、「トラウト」も護衛の駆逐艦の爆雷攻撃で撃沈されたものの、乗船していた約4,000人のうち2,280人が戦死するとともに多くの装備が海没するなど大損害を被ってしまい[25]、高品は当初の計画を変更して、テニアンに向かう予定であった歩兵第18連隊をサイパンで戦力回復させることとした[24]。その後も第31軍の隷下部隊として、関東軍や日本本土から旅団師団規模の部隊を松輸送でマリアナやパラオなど太平洋正面の島嶼に続々と送り込まれた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:458 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef