1858年、フランスとスペインはスペイン人宣教師2名の処刑を理由として、ツーラン(ダナン)に軍を派遣した。その後、フエの攻略も図るが行き詰まり、コーチシナのサイゴンを本格的に攻撃することになった。
1861年にフランスが提示した講和条件を阮朝が拒んだため、さらにビエンホアを占領するなど軍事行動を継続し、軍艦をフエに向かわせ、1862年 3月までにサイゴンからメコン下流地帯(ビエンホア、ビンロン)を占拠した。
この結果、ファン・タン・ジャンとラム・ズイ・ヒエップ(ベトナム語版)を中心とする使節団がサイゴンに派遣され、1862年6月5日にサイゴン条約が成立した。
その結果、フランス海軍が占領していたベトナム南東部3省がコーチシナとして事実上フランスの植民地となったほか、西部3省(1874年)の割譲及び、ハノイ、ハイフォンを含む6港の開港と領事館の設置、駐兵権の獲得、全土におけるキリスト教布教の自由、グエン朝の外交をも規制し得る権利、400万ドルの賠償、メコン川の開放など12項目を約束させられた[1]。
内容
ザーディン省・ビエンホア省(ベトナム語版)・ディンツォン省(ベトナム語版)を割譲
サイゴン・ビエンホア・ミトとコンダオ島の割譲
キリスト教布教の自由
ツーラン(ダナン)・バラット・クァンイエンの開港
賠償金の支払い(400万ドル)
メコン川の開放
以上の内容などを含む全12項目が定められた[1]。
参考文献
桜井由躬雄、石沢良昭著 『世界現代史7 東南アジア現代史V』 山川出版社、1995年
脚注^ a b c d “コトバンク - サイゴン条約”. 2021年11月26日閲覧。