サイケデリック・ミュージック
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ザ・ビーチ・ボーイズのヒットシングル「グッド・ヴァイブレーション」はタンネリン(Tannerin、テルミンを扱いやすくした楽器)が使われており、サイケデリックな歌詞とサウンドをポップスに持ち込んだ歌の一つとされている[22][23]。この流行に乗ったアメリカのポップスバンドには、エレクトリック・プルーンズ(Electric Prunes)、ストロベリー・アラーム・クロック(Strawberry Alarm Clock)、ブルース・マグースなどがいる[24]。また、サイケデリックなサウンドは モンキーズやレモン・パイパーズ( The Lemon Pipers)といった初期のバブルガム・ポップ(Bubblegum pop)のバンドやミュージシャンに見受けられた[25]。スコットランドのフォークシンガーであるドノヴァンは、エレクトリックなサウンドに転向したことにより、1966年に「サンシャイン・スーパーマン」でヒットした[26]。その曲は初期のサイケデリック・ポップのレコードの一つに数えられている[26]

よりポップなサイケデリックミュージックはオーストラリアやニュージーランドでもバンドが結成されるほどの人気ぶりだった。シドニーで結成されたイージービーツ(The Easybeats)は、ロンドンで『Friday on My Mind』 (1966年) をレコーディングし、世界的なヒットを起こした後、ロンドンにとどまり、1970年に解散するまで、サイケデリック気味なポップス作品を作り続けていった[27]クイーンズランド州ブリスベンで結成されたビージーズもイージービーツと似た道をたどり、ロンドンで自身の最初のアルバム『Bee Gees 1st』 (1967年)をレコーディングし、その後も3枚のヒットシングルを出した[28]。彼らのサウンドはフォークおよびロックを含んでいたが、サイケデリックな要素もあり、ビートルズの影響を強く受けていた[28]。アデレードで結成されたザ・トワイライト(The Twilights)も、ロンドンに行き、ささやかながらもいくつかヒットを出すことになる作品をそこでレコーディングし、サイケデリック・ミュージックのシーンについて学んだ後、帰国してシタールを用いたビートルズのカバー曲を製作し、コンセプトアルバム『Once upon a Twilight』(1968年)を発表した[29]。最も成功したとされるニュージーランドのバンドザ・ラ・デ・ダス(英語版)は、オスカー・ワイルド同名の児童文学を題材としたサイケデリック・ポップのアルバム『The Happy Prince』(1968年)を発表するが、イギリスおよび全世界でヒットを飛ばすことはできなかった[30]
サイケデリック・ソウル詳細は「en:Psychedelic soul」を参照

ジミ・ヘンドリックスがロックシーンにおいて成功したことを受けて、サイケデリック・ミュージックは、アフリカ系アメリカ人、特にモータウンに所属するミュージシャンたちに衝撃を与えた[31]公民権運動もあって、この時の音楽はアシッド・ロックにしては暗く、政治的な内容が強かった[31]ジェームズ・ブラウンがつくりあげた ファンクのサウンドに乗ったそのジャンルは、スライ&ザ・ファミリー・ストーン の「Dance to the Music」 (1968年)、「エヴリデイ・ピープル」 (1968年)、「I Want to Take You Higher」 (1969年) や、テンプテーションズの「Cloud Nine」 (1968年)、「en:Runaway Child, Running Wild」 (1969年)、「Psychedelic Shack」 (1969年)といった楽曲のリリースによって開拓されていった。すぐに シュープリームスの「Love Child」 (1968年)や「Stoned Love」 (1970年)、The Chambers Brothersの「Time has come today」 (1966年発表。ただしチャートインは1968年)、フィフス・ディメンションによるローラ・ニーロの「ストーンド・ソウル・ピクニック」 (1968年)のカバー[32]エドウィン・スターの「黒い戦争」(War) (1970年) 、アンディスピューテッド・トゥルース(英語版)の「en:Smiling Faces Sometimes」 (1971年)といった同ジャンルの作品が次々に出てきた[31]ジョージ・クリントンファンカデリックパーラメントを率いたり、様々なスピンオフをうみだしたことは、サイケデリック・ソウルというジャンルを息の長いものにし、1970年代の時点でファンクが宗教になりかけたほどだった[33]。彼は40枚以上のシングルをプロデュースし、内3枚はアメリカの音楽チャートのトップ10入りし、3枚のアルバムがプラチナアルバムに認定された[34]
衰退

サイケデリック・ミュージックは衰退していき、1960年代末までにはその流行は過ぎ去っていった。1966年にはアメリカとイギリスでLSDの所持使用が非合法とされ[35]、ビートルズの楽曲「ヘルター・スケルター」などの影響を受けたと主張するチャールズ・マンソンとそのファミリーによる、シャロン・テートとラビアンカ夫妻(Leno and Rosemary LaBianca)の殺害 (ただし、マンソンが直接手を下したのではなく、自分のファミリーに教唆した上での殺人である)は、反ヒッピー運動の追い風となった[36]。また、1969年12月6日にカリフォルニア州で開かれたローリング・ストーンズ主演のオルタモント・フリー・コンサート(en:Altamont Free Concert)では、警備にあたっていたヘルズ・エンジェルスのメンバーが観客の黒人青年メレディス・ハンター(Meredith Hunter)を刺殺、イベント自体が悪名高いものとなった[37]ビーチ・ボーイズブライアン・ウィルソン[23]、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズフリートウッド・マックピーター・グリーン、ピンク・フロイド、シド・バレットといった初期の「LSDの犠牲者(acid casualties)」とされ、彼らがかつて引張っていたバンドは、音楽の方向性を変えようとしており[38]クリームやジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスといったバンドは解散した[39]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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