サイケデリック・ミュージック
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そして1967年から、インクレディブル・ストリング・バンドは西洋の楽器と東洋の思想を組み合わせ、様々な要素を取り入れたアコースティック音楽を展開し[19][20]
サイケデリック・ロック詳細は「サイケデリック・ロック」を参照

サイケデリック・ロックは1960年代にロック・ミュージックと電子音楽と東洋からの影響などが合わさったロック・アンド・ロールムーヴメントの余波として成長した。大麻メスカリンLSDなどの幻覚剤といったドラッグを服用して得られた閃きによって、サイケデリック・ロックは伝統的なロック・ミュージックを打ち壊し、サイケデリック・メタルや実験的なロックのジャンルの根源になった。アメリカ合衆国では13thフロア・エレベーターズという、グレイトフル・デッドジェファーソン・エアプレイン等に代表されるジャンルとつながりを持つ『サイケデリック』という言葉が使われた最初のバンドが現れた。1965年から1967年にかけて、ビートルズも「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」や「トゥモロー・ネバー・ノウズ」等といったサイケデリック・ロックの楽曲を制作したが、厳密にサイケデリック・ロックとして分類されなかった。クリームと、ピンク・フロイドとその創設者シド・バレットはサイケデリック・ミュージックを受け入れ、初めて真のサイケデリック・バンドになった。ひとつの歌を制作することだけに集中し、「サイケデリックな」影響の元、実験的なレコーディングを行い、超現実的な音楽を作り上げるミュージシャンもいる。この過程を示す作品としてカントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュが1966年に制作した『Bass Strings』は、荒削りなジャグ・バンドに影響された様式への対抗作として、陽気でテンポの速い攻撃的なものとなった。1967年、商業的なヒットを狙いそうなものから、LSDの影響を受けてつくられた実験的な音楽に生まれ変わった。『Bass Strings』において、より遅いテンポに遅らせたボーカル、反響の追加、逆再生した状態で収録したシンバル、電子オルガン、砂漠を旅する内容の歌詞、延々と続くようなブルース・ギターのソロを合わせた結果サイケデリックな曲が生まれ、カントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュのファースト・アルバム『Electric Music for the Mind and Body』もそのようになった。ジェファーソン・エアプレインのウェブサイトには「(アルバム)『After Bathing at Baxter's』はサイケデリックな実験がどのような音楽を生み出し、どのように内側から感じさせるのか、その感覚を掴みたくて作った」とある。ジミ・ヘンドリックスもまた、自分のギターと才能でサイケデリックで実験的な音楽を生み出してきた。
サイケデリック・ポップ詳細は「en:Psychedelic pop」を参照イギリスにおける最初のサイケデリック・ポップ・スター、ドノヴァン。写真は2007年のもの

ビートルズのお蔭もあって、サイケデリックという要素はメインストリームおよび商業音楽界に広まり、ポップス業界がサイケデリック・ミュージックの影響を受け始め、ヒッピーファッションとともに、シタールやディストーションのかかったギターのサウンド、テープによるエフェクトが導入された[21]ザ・ビーチ・ボーイズのヒットシングル「グッド・ヴァイブレーション」はタンネリン(Tannerin、テルミンを扱いやすくした楽器)が使われており、サイケデリックな歌詞とサウンドをポップスに持ち込んだ歌の一つとされている[22][23]。この流行に乗ったアメリカのポップスバンドには、エレクトリック・プルーンズ(Electric Prunes)、ストロベリー・アラーム・クロック(Strawberry Alarm Clock)、ブルース・マグースなどがいる[24]。また、サイケデリックなサウンドは モンキーズやレモン・パイパーズ( The Lemon Pipers)といった初期のバブルガム・ポップ(Bubblegum pop)のバンドやミュージシャンに見受けられた[25]。スコットランドのフォークシンガーであるドノヴァンは、エレクトリックなサウンドに転向したことにより、1966年に「サンシャイン・スーパーマン」でヒットした[26]。その曲は初期のサイケデリック・ポップのレコードの一つに数えられている[26]

よりポップなサイケデリックミュージックはオーストラリアやニュージーランドでもバンドが結成されるほどの人気ぶりだった。シドニーで結成されたイージービーツ(The Easybeats)は、ロンドンで『Friday on My Mind』 (1966年) をレコーディングし、世界的なヒットを起こした後、ロンドンにとどまり、1970年に解散するまで、サイケデリック気味なポップス作品を作り続けていった[27]クイーンズランド州ブリスベンで結成されたビージーズもイージービーツと似た道をたどり、ロンドンで自身の最初のアルバム『Bee Gees 1st』 (1967年)をレコーディングし、その後も3枚のヒットシングルを出した[28]。彼らのサウンドはフォークおよびロックを含んでいたが、サイケデリックな要素もあり、ビートルズの影響を強く受けていた[28]。アデレードで結成されたザ・トワイライト(The Twilights)も、ロンドンに行き、ささやかながらもいくつかヒットを出すことになる作品をそこでレコーディングし、サイケデリック・ミュージックのシーンについて学んだ後、帰国してシタールを用いたビートルズのカバー曲を製作し、コンセプトアルバム『Once upon a Twilight』(1968年)を発表した[29]。最も成功したとされるニュージーランドのバンドザ・ラ・デ・ダス(英語版)は、オスカー・ワイルド同名の児童文学を題材としたサイケデリック・ポップのアルバム『The Happy Prince』(1968年)を発表するが、イギリスおよび全世界でヒットを飛ばすことはできなかった[30]
サイケデリック・ソウル詳細は「en:Psychedelic soul」を参照

ジミ・ヘンドリックスがロックシーンにおいて成功したことを受けて、サイケデリック・ミュージックは、アフリカ系アメリカ人、特にモータウンに所属するミュージシャンたちに衝撃を与えた[31]公民権運動もあって、この時の音楽はアシッド・ロックにしては暗く、政治的な内容が強かった[31]ジェームズ・ブラウンがつくりあげた ファンクのサウンドに乗ったそのジャンルは、スライ&ザ・ファミリー・ストーン の「Dance to the Music」 (1968年)、「エヴリデイ・ピープル」 (1968年)、「I Want to Take You Higher」 (1969年) や、テンプテーションズの「Cloud Nine」 (1968年)、「en:Runaway Child, Running Wild」 (1969年)、「Psychedelic Shack」 (1969年)といった楽曲のリリースによって開拓されていった。すぐに シュープリームスの「Love Child」 (1968年)や「Stoned Love」 (1970年)、The Chambers Brothersの「Time has come today」 (1966年発表。ただしチャートインは1968年)、フィフス・ディメンションによるローラ・ニーロの「ストーンド・ソウル・ピクニック」 (1968年)のカバー[32]エドウィン・スターの「黒い戦争」(War) (1970年) 、アンディスピューテッド・トゥルース(英語版)の「en:Smiling Faces Sometimes」 (1971年)といった同ジャンルの作品が次々に出てきた[31]


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