サイエンス・フィクション
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なお、漫画家の手塚治虫が戦後スタートさせたストーリー漫画の多くがSF物であったため、これに影響を受けた作家も多く(小松左京、筒井康隆など)、小松左京は著書『SF魂』の中で、当時の日本SF界の状況を以下のように表現している[33]。漫画星雲の手塚治虫星系の近くにSF惑星が発見され、星新一宇宙船船長が偵察、矢野徹教官が柴野拓美教官とともに入植者を養成、それで光瀬龍パイロットが着陸、福島正実技師が測量して青写真を作成、いちはやく小松左京ブルドーザーが整地して、そこに眉村卓貨物列車が資材を運び、石川喬司新聞発刊、半村良酒場開店、筒井康隆スポーツカーが走り…

また、江戸川乱歩は必ずしも系統だてたSFの紹介者ではなかったものの、戦前より続く探偵小説と空想科学小説の縁などもあり、この分野への理解を示し、盟友大下宇陀児らとともに自身の経営する雑誌『宝石』で星新一、筒井康隆ら新人を積極的に紹介した。

さらに、矢野徹野田昌宏浅倉久志伊藤典夫らの優秀な翻訳家は、欧米の優れたSFを紹介するだけでなく、どういうSFが面白いのかという点でオピニオン・リーダーとしての役割を果たした。また、『S-Fマガジン』初代編集長の福島正実は雑誌編集だけでなく、翻訳や創作も手がけ、日本SFの普及に努めた。
1970?80年代

日本万国博覧会大阪で開かれた(1970年)こともあって、1970年代には科学全般に対する世間の関心が高まった。小松左京の『日本沈没』(1973年)がベストセラーになり、1974年には従来の国産SFアニメに比べて本格的な設定が施された『宇宙戦艦ヤマト』がTV放映された。1970年代後半には、映画『スター・ウォーズ』の日本公開(1978年)などもあり、日本においてSFが世間から注目を集めた。一方でSF作家が他分野へ進出するようになり、筒井康隆が「SFの浸透と拡散」と表現した日本SFの変質の始まりでもあった[34]

また、この年代を中心に眉村卓・光瀬龍・福島正実らが小学生・中学生・高校生向けのジュブナイルの分野を推し進め、映画テレビドラマ漫画化される作品を生み出し学生向けSFの分野を確立した。

奇想天外』(1974年創刊)、『SFアドベンチャー』(1979年創刊)、『SF宝石』(1979年創刊)、『SFの本』(1982年創刊)などのSF雑誌が相次いで創刊され、それぞれ新人賞を設けるなどして新人の発掘にあたったため、『S-Fマガジン』とあわせて、堀晃・横田順彌・田中光二山田正紀かんべむさし野阿梓神林長平大原まり子火浦功草上仁新井素子・夢枕獏・田中芳樹菅浩江らが1970年代から1980年代にかけて続々とデビューした。1970年代前半から活躍を開始した堀晃、横田順彌、田中光二山田正紀かんべむさしらは「SF作家第二世代」と呼ばれた。1980年代から活躍を開始した野阿梓神林長平大原まり子火浦功草上仁新井素子らは「SF作家第三世代」と呼ばれた。

また、半村良の伝奇SFや平井和正の『ウルフガイ』シリーズは、菊地秀行夢枕獏高千穂遙の諸作品を経て、ライトノベルへと連なる源流の一つとなった。

その一方で、作家・評論家の山野浩一は、不定期刊行誌『季刊NW-SF』(1970年-1982年)の刊行やサンリオSF文庫(1978年-1987年)の監修などを通じて、既存の日本SF界を批判しつつ独自の運動をおこなった[35]。山野浩一が主催した「NW-SFワークショップ」には、鏡明荒俣宏川又千秋森下一仁亀和田武新戸雅章・永田弘太郎・志賀隆生高橋良平山形浩生・大和田始・野口幸夫増田まもるらが参加していた。

1980年代になると、1970年代に商業デビューしキャリアを重ねていた新井素子神林長平夢枕獏らが活躍した。一方で、田中芳樹は当時の和製スペースオペラの代表格であった『銀河英雄伝説』シリーズ本編を1987年に完結させ、その後は伝奇小説などに活動の軸足を移していった。

ビジュアル分野でのSFは引きつづき繁栄し、『風の谷のナウシカ』や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が公開され、サンライズが『機動戦士ガンダム』の商業的大成功を経て『装甲騎兵ボトムズ』というハードSF的な作品を製作した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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