『S-Fマガジン』で募集されたハヤカワ・SFコンテストからは、小松左京・筒井康隆・半村良・光瀬龍・平井和正・豊田有恒らが次々とデビュー。早川書房が発行する雑誌・書籍以外でも、眉村卓・星新一・今日泊亜蘭らがSF作品を発表した。
これらの作家は、欧米のSFの影響を受けながら、それぞれに特徴ある作風で日本独自のSFを展開していった。1960年代から活躍した彼らを「日本SF作家第一世代」と呼ぶ。
また平井和正、豊田有恒、柴野拓美などは、SF漫画の原作やSFアニメの脚本やSF考証などを手がけ、小説に留まらない活躍をした。なお、漫画家の手塚治虫が戦後スタートさせたストーリー漫画の多くがSF物であったため、これに影響を受けた作家も多く(小松左京、筒井康隆など)、小松左京は著書『SF魂』の中で、当時の日本SF界の状況を以下のように表現している[32]。漫画星雲の手塚治虫星系の近くにSF惑星が発見され、星新一宇宙船船長が偵察、矢野徹教官が柴野拓美教官とともに入植者を養成、それで光瀬龍パイロットが着陸、福島正実技師が測量して青写真を作成、いちはやく小松左京ブルドーザーが整地して、そこに眉村卓貨物列車が資材を運び、石川喬司新聞発刊、半村良酒場開店、筒井康隆スポーツカーが走り…
また、江戸川乱歩は必ずしも系統だてたSFの紹介者ではなかったものの、戦前より続く探偵小説と空想科学小説の縁などもあり、この分野への理解を示し、盟友大下宇陀児らとともに自身の経営する雑誌『宝石』で星新一、筒井康隆ら新人を積極的に紹介した。
さらに、矢野徹・野田昌宏・浅倉久志・伊藤典夫らの優秀な翻訳家は、欧米の優れたSFを紹介するだけでなく、どういうSFが面白いのかという点でオピニオン・リーダーとしての役割を果たした。また、『S-Fマガジン』初代編集長の福島正実は雑誌編集だけでなく、翻訳や創作も手がけ、日本SFの普及に努めた。 日本万国博覧会が大阪で開かれた(1970年)こともあって、1970年代には科学全般に対する世間の関心が高まった。小松左京の『日本沈没』(1973年)がベストセラーになり、1974年には従来の国産SFアニメに比べて本格的な設定が施された『宇宙戦艦ヤマト』がTV放映された。1970年代後半には、映画『スター・ウォーズ』の日本公開(1978年)などもあり、日本においてSFが世間から注目を集めた。一方でSF作家が他分野へ進出するようになり、筒井康隆が「SFの浸透と拡散」と表現した日本SFの変質の始まりでもあった[33]。 また、この年代を中心に眉村卓・光瀬龍・福島正実らが小学生・中学生・高校生向けのジュブナイルの分野を推し進め、映画・テレビドラマ・漫画化される作品を生み出し学生向けSFの分野を確立した。 『奇想天外』(1974年創刊)、『SFアドベンチャー』(1979年創刊)、『SF宝石』(1979年創刊)、『SFの本』(1982年創刊)などのSF雑誌が相次いで創刊され、それぞれ新人賞を設けるなどして新人の発掘にあたったため、『S-Fマガジン』とあわせて、堀晃・横田順彌・田中光二・山田正紀・かんべむさし・野阿梓・神林長平・大原まり子・火浦功・草上仁・新井素子・夢枕獏・田中芳樹・菅浩江らが1970年代から1980年代にかけて続々とデビューした。1970年代前半から活躍を開始した堀晃、横田順彌、田中光二、山田正紀、かんべむさしらは「SF作家第二世代」と呼ばれた。1980年代から活躍を開始した野阿梓・神林長平・大原まり子・火浦功・草上仁・新井素子らは「SF作家第三世代」と呼ばれた。 また、半村良の伝奇SFや平井和正の『ウルフガイ』シリーズは、菊地秀行・夢枕獏・高千穂遙の諸作品を経て、ライトノベルへと連なる源流の一つとなった。 その一方で、作家・評論家の山野浩一は、不定期刊行誌『季刊NW-SF』(1970年-1982年)の刊行やサンリオSF文庫(1978年-1987年)の監修などを通じて、既存の日本SF界を批判しつつ独自の運動をおこなった[34]。山野浩一が主催した「NW-SFワークショップ」には、鏡明・荒俣宏・川又千秋・森下一仁・亀和田武・新戸雅章・永田弘太郎・志賀隆生・高橋良平・山形浩生・大和田始・野口幸夫・増田まもるらが参加していた。
1970?80年代