ゴードン・ブラウン
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この際の経緯に関して、2人の間には密約が交わされているとの噂があり、ロンドンのイズリントン地区のレストランで会食した際に、ブレアを党首とする代償としてブラウンが経済政策を取り仕切ること、そしてブラウンをブレアの後継者とすることが約束されたと言われる(ブレア=ブラウン密約)。それぞれ労働党の左派と穏健派を代表する2人の間には政治的対立があるとの報道がなされることが多い。
財務大臣への就任

1997年5月の総選挙で労働党は大勝利を収めブレア政権が誕生した。ブラウンは影の内閣より引き続いて財務大臣に任命された。ブラウンは就任直後に金融政策の大転換を行い国民を驚かせた。公定歩合の決定権を含めた金融政策の責任をイングランド銀行へと大幅に譲渡するこの政策は、ブラウンのアシスタントであり、現、庶民院議員エド・ボールズ(英語版)によりまとめられたものである。2002年には健康保険の保険料を増加させた。OECDによると1997年に39.3%だったイギリスの税率は2006年には42.4%にまで増加している[2]

保守党政権期からイギリス経済は安定成長を持続しており、1997年から2006年にかけての経済成長率は2.7%であった。2005年5月24日EU加盟諸国はODAGDPの0.56%に増額する合意に達した[3]。ブラウンはこの決定を歓迎した。またブレア首相は拠出金割引の譲歩を実行して、そのEU首脳会議の争点であったイギリスの拠出金割引制度は維持されることになる。これはヨーロッパ全体の2.1%より高いが、世界の英語圏諸国中では最低である。失業率は1997年の7%から5.1%にまで改善した(この間、ヨーロッパ全体の失業率は8.1%)。

ブレアとともに「ニューレイバー」の旗頭であったが、ブレアよりは左派寄りで「ソフト・レフト」を自称した。しかし財務大臣としては規制緩和など市場主義路線を大胆に推し進め、高成長を維持した。こうした政策は、後の首相就任時の金融バブル崩壊後、その一因として厳しく批判されることになるが、当時は高い評価を得た。また国防政策などにおいても、徐々にアメリカ合衆国支持、穏健派よりの言動を見せるようになったが、これは首相就任への布石であったとの見方が強い。
ポスト・ブレア詳細は「2007年イギリス労働党党首選挙」を参照

2004年10月にブレア首相は4回目の総選挙に際しては党首を後継に譲ることを発表した。2005年の総選挙(ブレア就任後3回目)で労働党は過半数は維持したものの議席を大きく減らし、2006年夏にはブレア首相は1年以内に退陣することを明言した。

2007年に入るとブレアの次の労働党党首が誰になるかは、仮定の問題ではなく現実の問題として扱われた。何人かの党内有力者(現役の閣僚)が対抗馬として党首選に立候補することを示唆するなど一時は波乱含みの展開を予想させたが、結局は彼らも立候補を断念し、「後継者はゴードン・ブラウンで確定」というムードは変わることなく、2007年5月には唯一の対抗馬として立候補の意向を明示していた党内左派のジョン・マクドネルが、党首選に出るために必要な規定の人数の支持を得られず立候補を断念、ブラウンは無投票で労働党の次期党首となった(就任は6月24日の臨時党大会にて)[4]。この数日前の5月10日には、ブレアが首相辞任の日付を「6月27日」と発表しており、ブラウンが労働党党首に確定したことで、同日にブラウンが首相として就任することが固まった。

早くから「次期労働党党首の最有力候補」と見なされ続けてきたブラウンにとって、満を持しての首相就任であったが、ブレア時代に一貫して低調だった保守党が、デービッド・キャメロンの党首就任を機に支持を盛り返しており、2006年ごろの世論調査でブラウンが首相となった場合の支持率においても保守党を下回った。ブレア政権の負の遺産を抱えてのスタートとなるため、新政権の先行きは不透明なものとなるとの観測が支配的だった。
イギリス首相に

2007年6月27日、ブラウンは正式に首相就任し翌28日に新政権が発足した。英国首相の交代は10年ぶりで西欧の主要国では2005年以来政権交代が続いており、英新首相の登場ですべて新指導者の時代に入ることになった。

長年政権中枢にあったブラウンは首相職も着実にこなし、安定感ある仕事振りが評価されて、就任後しばらくは労働党の支持率が保守党を上回った。このため9月の労働党大会で党内から年内の解散を求める声が上がり、10月初頭に政局は緊迫した様相を見せたが、保守党の提示した減税案が好感されて支持率で猛追されたこともあり、解散は断念に追い込まれた。この判断は保守党はもとより労働党内からも強い批判を浴び、以後「優柔不断」との評が絶えなくなった。11月に入ると、ノーザン・ロック銀行の経営危機への対応や歳入関税庁による個人情報2500万人分の紛失事件、党の違法献金問題などを受けて支持率が逆転した。

明けて2008年1月には献金疑惑で実力者のピーター・ヘイン(英語版)雇用年金・ウェールズ相が辞任に追い込まれた。3月から4月にかけては経済情勢の悪化や北京オリンピック聖火リレーを巡る対応からも批判を浴び、党の支持率は過去25年で最低、保守党との差も過去25年で最大の水準に開いた(労働党27%、保守党43%)が、これはチェンバレン首相を超える英史上最も急速かつ大幅な支持率下落であるという[5][6]。5月の統一地方選では、労働党はロンドン市長の座を失ったのをはじめ、得票率で自民党を下回り第三党に転落するという結党以来最大の惨敗を喫した上、6月のテロ対策法改正案では与党の大量造反のため一部野党の協力を仰がざるを得ず、同年の労働党大会では党内の退陣圧力をかわすのに精一杯という有様だった。もっとも秋のリーマン・ショックを受けた金融不安では公的資金注入などで迅速な対処を見せたことから、一部で「欧州の救世主」などと賞賛され、支持率も一時的に上昇。余勢を駆っての解散が取りざたされるなどした。2009年アメリカ合衆国大統領バラク・オバマとの会談にて

しかし2009年に入ると英経済が17年振りの景気後退に入り、ポンド安・金融危機が一層深刻化し、経済運営への信頼も揺らいだ。春には、労働党議員の不明朗な経費請求問題への対応が後手に回り強い批判を浴びるとともに、元グルカ兵の永住権問題で野党動議の可決を許すなど窮地は深まるばかりで、労働党の支持率は史上最低の22%に低下した(保守党は45%)[7]。6月に入ると主要閣僚がスキャンダルで相次いで辞任し、党内で党首交代を求める電子メールが出回るなど「ブラウン降ろし」の動きが公然化した[8]。結局、統一地方選で労働党は250議席以上減らし大敗。ダービーシャーなど北部4州の議席を全て保守党に奪われる事態となった。ブラウンは「労働党にとって悲痛な敗北だ」とコメントしたが、内閣改造を行い続投を表明した[9]。しかし、閣僚からも公然と退陣要求が出た[10]

2009年9月、イギリス政府が半世紀以上に渡って個人を対象としたネガティブ・キャンペーンを継続してきたことに関して、アラン・チューリングへ謝罪した[11]

2010年に入ると巻き返し、保守党との支持率差を縮めたが、依然として大きくリードを許したまま5月6日に総選挙を実施。ブラウンは経済政策の成果を強調し選挙に臨んだが、議席を100近く減らして過半数を大きく割り込み大敗した。選挙後に自民党と連立を模索したが、政権維持は困難な状況となった。詳細は「2010年イギリス総選挙」を参照

労働党内からも辞任を求める声が強まり、5月10日、ブラウンは秋の党大会で次の党首が選ばれるまで党首としてとどまり、その後辞任すると述べた[12]が風当たりは収まらず、翌5月11日に辞任を表明した[13]。その後については要職につくことはないバックベンチャー(英語版)として議会後方席に残る意思を示した。
首相退任後

上述のように、首相退任後は目立った政治活動は行っていなかったが、2014年9月のスコットランド独立住民投票の際には、投票日が近くなってから独立反対派の集会で何度も演説を行い、「大枠で現状維持しつつ、スコットランド議会の権限拡大は進める」という方向性を明確に打ち出し、賛否を決めかねていた有権者を説得、事前の予想以上に独立賛成派に傾いていた流れを戻し、反対派の勝利に貢献した[14][15]


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