ゴート戦争
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その間、ムンドゥスはほとんど抵抗を受けることなくダルマチアを制圧し、ダルマチアの首都サロナ(現在のスプリト)を占領した[24]。だが、救援のための東ゴート族の大軍が到着して、ムンドゥスの息子マウリキウスは小競り合いで戦死する。息子の死に激怒したムンドゥスは東ゴート軍に向けて自軍を進めて、これを撃滅したが、その追撃中に彼自身が戦死してしまう。この結果、東ローマ軍は撤退してサロナを除くダルマチア全土は放棄され、東ゴート軍の手に帰した[30]。勝報を受けたテオダハドは大胆になり、ユスティニアヌス帝の特使を逮捕して投獄してしまった[31]

平和的イタリア接収の可能性がなくなったことを受け、ユスティニアヌス帝はダルマチア奪回のため、新たにイリュリクム管区軍司令官コンスタンティアヌスを派遣し、ベリサリウスにはイタリア渡航を命じた。コンスタンティアヌスは任務を迅速に成し遂げた。東ゴート族の将軍グリパスはサロナを占領したばかりだったが、城壁は崩落しており、市民も親ローマ的であったため町を放棄して北方へ撤退した。コンスタンティアヌスはサロナを占領し城壁を再建した。7日後、東ゴート軍はイタリアへ後退し、6月までにダルマチアは再び東ローマ帝国の支配下に入った[32]

536年晩春、ベリサリウスは海を渡ってイタリアへと軍を進め、レギウム(Rhegium:現在のレッジョ・ディ・カラブリア)を奪取した。11月、東ローマ軍は多数の犠牲を出しながらもナポリを攻略し、略奪を行った[33]。ベリサリウスの素早い進軍に東ゴート族は驚愕し、テオダハドの無能さに憤慨した[34]。ナポリ失陥後、ローマにいたテオダハドは追放され、新王にウィティギスが選ばれた[35]。テオダハドは首都ラヴェンナへの逃亡を図るが、刺客に追いつかれ暗殺された[36]
ウィティギスの反撃(536年12月 - 538年4月)ベリサリウス率いる東ローマ軍がローマに入城したアジナリア門 (en) 6世紀時点のローマ市の城壁配置

新王ウィティギスはローマを放棄してラヴェンナへと向かい、王位継承を正統化し侵略に抵抗するための軍を召集すべくアマラスンタの娘マタスンタと結婚した[37]。536年12月にベリサリウスは抵抗を受けることなくローマに入城できた[38]

ウィティギスは南ガリア(現在のプロヴァンス)割譲と金2000リトゥラの支払いを条件にフランク族と同盟を結んで背後を固めると[39]、537年2月に大軍を率いてローマへと進軍した[40]。一方、ベリサリウスは野戦を行うに十分な兵力がなく籠城した[41]。ゴート戦争中、幾度も行われることになるローマ包囲の最初となるこの包囲戦は537年3月から538年3月まで1年にわたり続いた(ローマ包囲戦 (537年-538年) (en) )。この包囲戦では69回もの大小の戦闘記録が残されている[40]。ローマ市内は飢餓と疫病に苦しめられ[42]、ローマ人の不満が教皇シルウェリウスへ向けられ廃位される事件が起こっている[nb 2]

4月にコンスタンティノープルから1,600人のスラブ族とフン族の部隊が到着し[43]、11月に兵5,000[43]の増援が到着すると東ローマ軍は攻勢に転じた。東ローマ軍の騎兵隊が東ゴート軍の背後の諸都市を攻略・略奪し[44]、もともと貧弱だった補給状態をさらに悪化させて[nb 3]、東ゴート族を威嚇した。最終的にラヴェンナから1日の距離にあるアリミヌム(Ariminum:現在のリミニ)がヨハネス将軍によって攻略させられたことにより[45]、ウィティギスは包囲を解いて撤退した[46]

ウィティギスは後背の安全を確保すべく諸都市と城塞の守備兵を強化した上で、アリミヌム奪回に向かった[47]。この地にはベリサリウスの精鋭を含む2,000の騎兵隊[48]が占拠しており、ベリサリウスはこれを歩兵と交代させ騎兵隊を自らの側において活用可能にしようとしたが、指揮官のヨハネスはこの命令を拒否してアリミヌムに留まった[49]。この失策は間もなく東ゴート軍が到着して明白になる。最初の強襲は失敗したものの、彼らは僅かな兵糧しかない都市の包囲を進めた[47]。同時に別の東ゴート軍がアンコーナへ進軍した。彼らは野戦で東ローマ軍を打ち破ったが、結局、アンコーナの城壁突破には失敗している。

この時、アルメニア人の宦官ナルセスに率いられた同盟部族・ヘルール族2,000人がピケヌム(Picenum)に到着した[50]。ベリサリウスはナルセスと会合したが、両将は今後の方針について意見が対立した。ナルセスはアリミヌムを直接救援することを主張し、ベリサリウスはより慎重な方法を望んだが、落城が近いとのヨハネスからの手紙が届いたため前者に決した[51]。ベリサリウスは軍を三手に分かち、海上輸送部隊は彼が最も信頼する副官イルディガルが率い、老練なマルティヌスに率いられた部隊が南方から攻め、そして主力部隊を彼自身とナルセスが率いた。だが、東ローマ軍の接近を知ったウィティギスは優勢な敵軍に包囲されることを避けるべく急ぎラヴェンナへ撤退した[52]

アリミヌムでの無血勝利はベリサリウスに対するナルセスの立場を強化し、ヨハネスを含む多くの多くの将軍たちがナルセスの側に付いた[53]。アリミヌム救援後の軍議で、この不和は顕在化する。ベリサリウスが背後にあるアウクシウム(Auximum:現在のオージモ)の東ゴート軍を制圧して包囲されているメディオラヌム (en) (Mediolanum:現在のミラノ)を救援する作戦を主張したのに対して、ナルセスはアエミリア(Aemilia)での軍事行動を含む、やや兵力を分散させる作戦を主張した[54]。ベリサリウスはことを完全な決裂に至らせることはせず、ナルセス、ヨハネスとともにウルウィヌム(Urbinum:現在のウルビーノ)へ進軍することとした。二派の軍隊は別々に野営するようになり、すぐにナルセスはウルウィヌムは要害堅固かつ十分な補給もあると考え至り、野営地を引き払いアリミヌムへと向かってしまった[55]。ここから彼はヨハネスをアエミリアへ派遣し、同地を容易に制圧した。一方、ベリサリウスは町の唯一の水源の枯渇という幸運もあり、ほどなくしてウルウィヌムを陥落させる[56]。何れにせよイタリアの東ローマ軍は二人の司令官に従うことになり、この不和はメディオラヌム救援失敗という悲劇的な結果をもたらすことになる。
メディオラヌム略奪(538年4月 - 539年3月)ミラノのローマ帝国時代の城壁。

538年4月、ベリサリウスはローマに次ぐイタリア半島第二の人口と富を有するメディオラヌム(現在のミラノ)からの請願を受け、ムンディアル率いる兵1000を派遣した。派遣部隊はメディオラヌムとティキヌム(Ticinum)を除くリグリア地方のほとんどを苦もなく確保した。だが、ウィティギスがフランク王に助けを求めると1万のブルグント族が予想もできない速さでアルプス山脈を越え、ヴライアス(Uraias)率いる東ゴート軍とともにメディオラヌムを包囲した[57]

町は食糧が不足しており、元々少数だった東ローマ軍は周囲の町や砦を守るために各地に分散しており守備兵も僅かだった[58]。ベリサリウスは救援軍を送ったが、司令官のマルティヌスとウリアリスは包囲されている町を救出する何らの努力もしなかった。彼らは隣接するアエミリア地方で作戦行動中のヨハネスとイリュリクム管区軍司令官のユスティノスに援軍を要請したが、東ローマ軍指揮系統の分裂が事態を悪化させる。ヨハネスとユスティノスはナルセスの許可なく動くことを拒否し、さらにヨハネスが病になったことで準備が滞ってしまった。

これらの遅延はメディオラヌムに致命的な結果をもたらした。数カ月の包囲に耐えた町は飢餓状態に陥っていた。東ゴート軍は守備隊長ムンディアルに降伏すれば兵士たちの安全を保証すると約束したが、市民の安全が保証されなかったため彼は拒絶した。だが、539年3月になると、飢えに苦しむ兵士たちが彼に降伏の受諾を強要した。実際に東ローマ兵たちの命は救われたが、市民たちは虐殺され[nb 4]、町は完全に破壊された[59]
ラヴェンナ占領(539年3月 - 540年5月)ベリサリウス
ラヴェンナ・サン・ヴィターレ聖堂

この大惨事の結果、ナルセスは召還され、ベリサリウスのイタリアにおける最高司令官としての権限が確認された。同じ頃、ウィティギスはペルシャ宮廷に使者を送り、ホスロー1世に対して東ローマとの戦争を再開するよう説得させていた[60]


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