ゴート戦争
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だが、ウィティギスがフランク王に助けを求めると1万のブルグント族が予想もできない速さでアルプス山脈を越え、ヴライアス(Uraias)率いる東ゴート軍とともにメディオラヌムを包囲した[57]

町は食糧が不足しており、元々少数だった東ローマ軍は周囲の町や砦を守るために各地に分散しており守備兵も僅かだった[58]。ベリサリウスは救援軍を送ったが、司令官のマルティヌスとウリアリスは包囲されている町を救出する何らの努力もしなかった。彼らは隣接するアエミリア地方で作戦行動中のヨハネスとイリュリクム管区軍司令官のユスティノスに援軍を要請したが、東ローマ軍指揮系統の分裂が事態を悪化させる。ヨハネスとユスティノスはナルセスの許可なく動くことを拒否し、さらにヨハネスが病になったことで準備が滞ってしまった。

これらの遅延はメディオラヌムに致命的な結果をもたらした。数カ月の包囲に耐えた町は飢餓状態に陥っていた。東ゴート軍は守備隊長ムンディアルに降伏すれば兵士たちの安全を保証すると約束したが、市民の安全が保証されなかったため彼は拒絶した。だが、539年3月になると、飢えに苦しむ兵士たちが彼に降伏の受諾を強要した。実際に東ローマ兵たちの命は救われたが、市民たちは虐殺され[nb 4]、町は完全に破壊された[59]
ラヴェンナ占領(539年3月 - 540年5月)ベリサリウス
ラヴェンナ・サン・ヴィターレ聖堂

この大惨事の結果、ナルセスは召還され、ベリサリウスのイタリアにおける最高司令官としての権限が確認された。同じ頃、ウィティギスはペルシャ宮廷に使者を送り、ホスロー1世に対して東ローマとの戦争を再開するよう説得させていた[60]。説得が成功すればユスティニアヌス帝はベリサリウスを含む軍の主力を東方に集中させねばならなくなり、東ゴート族は回復の機会を得ることができる。実際に両国の戦争は再開したが、ウィティギスにとっては遅すぎた[61]

一方、ベリサリウスはラヴェンナを攻略して、この戦争を終わらせると決意した。これを成し遂げる前に、彼はアウクシウムとファエスラエ(Faesulae:現在のフィエーゾレ)の2つの東ゴート軍拠点を攻略せねばならなかった[62]。マルティヌスとヨハネスがヴライアス率いる東ゴート軍を牽制すべくポー川を渡河する一方で、ユスティノスがファエスラエを、そしてベリサリウスはアウクシウムを包囲する。

この包囲戦の最中にテウデベルト (en) 率いるフランク族の大軍がアルプスを越えて侵攻し、東ゴート軍と東ローマ軍の両方に不意打ちをかけて来た[63]。援軍が来たと思い込んでいた東ゴート軍はたちまち総崩れになる。同様に驚愕した東ローマ軍は交戦したが撃破され、南方のトスカーナへと退却した。戦争の行方を変えたこのフランク軍の侵攻だが、赤痢が蔓延して多数の死者を出し、撤退を余儀なくされた[64]。ベリサリウスは両都市の包囲に専念し、539年10月または11月に飢餓に苦しんでいた両都市は降伏した[65]

これらの成功によって後顧の憂いがなくなり、ダルマチアからの増援も得たベリサリウスはラヴェンナへと進軍する。別働隊がポー川の北方へ送られ、帝国艦隊がアドリア海を哨戒して町への補給を断った[66]。包囲された東ゴート王国の首都では、ウィティギスとの同盟を求めるフランク族の使者との交渉が持たれていたが、前年夏の出来事もあり、フランク族からの申し出には信がおけなかった[67]。程なくしてコンスタンティノープルからの使者が訪れ、ユスティニアヌス帝からの非常に寛大な講和を申し出て来た[66]。ペルシャとの戦争の為に東ゴートとの和平を切望していた皇帝は、ポー川の南を帝国領、北を東ゴート領とする分割案を提示した[66]。ウィティギスはこの和平案を受け入れようとしたが、ベリサリウスは、このような和平は自分の功績に対する裏切りであると見なし、将軍たちの反対にもかかわらず、署名を拒否してしまう[68]イタリア王位を拒否するベリサリウス。
作者不明。1830年

ベリサリウスの意思を誤解したウィティギスは彼に対して「西方の王」(basileus)の座を提供した[69]。ベリサリウスにはそのような野心はなかったが、状況を利用すべく偽りの承諾をした。540年5月、ベリサリウス率いる東ローマ軍がラヴェンナに無血入城した。町を占領したベリサリウスはユスティニアヌス帝の統治下に入ったこと、そして東ゴート王国の消滅を宣言した[66]

ウィティギスの身柄は拘束され、王室の財宝もコンスタンティノープルへ送られたが、町は略奪されることはなく、東ゴート族の財産も保証された[70]。ユスティニアヌス帝からの召喚命令により、ベリサリウスはウィティギスを伴ってコンスタンティノープルへ帰還した。ウィティギスにはパトリキ(貴族)の称号が与えられ、安楽な引退生活が許された一方で[71]、捕虜となった東ゴート兵たちは対ペルシャ戦の増援として東方に送られた[72]

ラヴェンナの降伏により、ポー川北方の諸都市も帰順したが、ヴライアスの本拠であるティチヌム(Ticinum)やイルディバルドが守るヴェローナは依然として東ゴート族の勢力下にあった。
ゴート戦争第二期(540年/541年-554年)
イルディバルドとエラリーコ (540年 - 541年)もしも、ベリサリウスが召還されなかったなら、彼は数カ月のうちに半島の征服を完成させていたであろう。この最良の解決策はユスティニアヌス帝の嫉妬によって頓挫させられた。そして次善の策である皇帝による和平案は彼の将軍たちの不服従によって失敗した。彼らはイタリアにおけるこの戦争がさらに20年も続いた責任を負っている。 ? John Bagnell Bury、 History of the Later Roman Empire, Vol. II, Ch. XIX

ベリサリウスが去った後のイタリアの大部分は東ローマの支配下にあったが、ポー川の北方にあるティチヌムとヴェローナは未だ征服されていなかった。ベリサリウスの欺瞞が明らかになると、ヴライアスの奨めにより、東ゴート族はイルディバルドを新たな王に選んだ[73]。ユスティニアヌス帝はベリサリウスの後任となる最高司令官を任命しなかった。東ローマ軍の兵士と将軍たちは訓練もせずに略奪に耽り、新たに任命された帝国官吏たちは重税を課してすぐに信望を失った[74]。イルディバルドはヴェネツィアとリグリアの支配を回復した。イルディバルドはトレヴィーゾで東ローマ軍を大いに破ったが[75]、妻同士の諍いが元でイルディバルドはヴライアスを殺し、彼自身もまた541年5月に暗殺されてしまった[76]

オドアケルの残党のルギイ族(英語版)(イタリアに留まり、東ゴート族に味方していた)がイルディバルドの甥エラリーコを東ゴート王に推戴する[77]。奇妙なことだが、東ゴート族はこの選出を支持した[78]。だが、エラリーコは東ゴート族に対してユスティニアヌス帝との和平交渉を説得し、さらには秘かにイタリア全土を帝国に差し出そうと目論んでいた[79]。彼の本意に気づいた東ゴート族は同じくイルディバルドの甥でエラリーコの従兄弟であるトーティラに鞍替えし、王位を提供した。皮肉にもトーティラ自身も帝国との交渉に入っていたが、陰謀者たちから謀議を持ちかけられると彼らに同意する[80]。541年秋にエラリーコは殺害され、トーティラが王となった[81]
トーティラの元での東ゴート族の再起 (541年 - 543年)トーティラによるフィレンツェ破壊。

三つの要因がトーティラによる東ゴート王国再興に有利に働いた。第一は542年に帝国領内で発生した黒死病の流行 (en) により、帝国の人口が激減したこと。第二は対ペルシャ戦争 (en) の勃発。第三はイタリアに駐留する帝国の将軍の不統一と無能である[82]。ユスティニアヌス帝に急き立てられたコンスタンティーヌ将軍とアレクサンダー将軍が兵を併せてヴェローナへと進軍した[83]。彼らは内応によって城門を奪取できたが略奪の分け前を巡って諍いを起こしてしまい、東ゴート軍は城門を奪回し東ローマ軍を退かせた[84]。トーティラはファヴェンチィア (Faventia :現ファエンツァ)の野営地を急襲して東ローマ軍を撃破する[85]。その後、トーティラはトスカーナへと進撃し、フィレンツェを包囲した。ヨハネス、ベッサそしてキプリアンの3人の東ローマ将軍が救援に向かったが、数に勝る彼らは敗北し、潰走した[86]

兵力で劣り、ただ一度の敗戦で破滅しかねない危険があるにもかかわらずトーティラは中部イタリアに留まることなく、東ローマ軍の守備隊が少なく弱体な南部へ進軍することを決めた。彼はローマを迂回し、南イタリア諸州は制圧された[87]。この戦役はトーティラの戦略の要点をよく現わしている。迅速な行軍により農村部を支配し、東ローマ軍は孤立した沿岸部の拠点に取り残され、やがてその数を減らすことになる。城塞が陥落すると城壁を破壊して軍事的価値を無くす[88]。さらに意図的に捕虜を丁重に扱い、これにより抵抗して死ぬよりも降伏することを誘うようになる[88]


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