ゴート人
[Wikipedia|▼Menu]
以後、彼らはダキアモエシアに幾度となく侵攻を繰り返し、241年にはマルキアノポリス(英語版)に現れて保証金をせしめることに成功しているが、皇帝フィリップス・アラブスによって撃退された。しかし、251年ニコポリスを包囲していたゴート族は、撃退にあたったローマ軍を壊滅させると、フィリッポポリスを陥落させ、さらに迎撃にあたった皇帝デキウスアブリットゥスの戦いで敗死させるなど、ローマ帝国を苦しめることもあった。ゴート族の南下と定住は、クラウディウス・ゴティクス帝とのナイススの戦いでの大敗と271年アウレリアヌス帝ダキア属州を割譲することによって停止するが、それまでに黒海東岸のピテュース(英語版)(古代ギリシア語: Πιτυο??)、トラペズスビザンティウムニコメディアエフェソステッサロニキロドス島キプロス島などの諸都市を攻撃している[7]

これらのことから、ゴート族が現ポーランド、ポモージェ県でオクシヴィエ文化により発生して、プシェヴォルスク文化のヴィスワ川東岸地方の土地の文化の影響を受けながらヴィェルバルク文化の段階に発展しつつ黒海沿岸部へ移動し、当地でチェルニャヒーウ文化の影響を受けてキエフ文化(英語版)の段階へ移行したことは、ほぼ確実である。しかし、ヨルダネスの記述にあるように一王の世代で成されたものではなく、また、各文化それぞれの特質から見られるように、ゴート族の大移動は、ゴート族のほかスラヴ人の部族やサルマタイ人の部族などいくつかの部族が融合して行われたものらしい。なぜ彼らが移動したのかという理由については確定していないが、東ポメラニア地方という、大半が砂地で土地が肥沃でない一帯に発展したオクシヴィエ文化時代からその主な生業が土地に根付いた産業であるところの農業ではなく、遠方へ出かけて交易を行い食料や生活必需品を手に入れてくる商取引であったことから、南下したほうが黒海沿岸の経済的に豊かな地方との交易に有利だという考えがあったことが第一に推測される。
ゴート族の勢力確立.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ゴート族" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年5月)

チェルニャヒーウ文化は、4世紀カルパティア山脈東部から黒海北方において見られる文化である。一部の墓地からヴィェルバルク文化で発見されたものとほとんど同じ装飾品が出土している。スラヴ人の埋葬形式の特徴とそのほかの人々が一般的に行なっていた埋葬形式の特徴とが併存していること、特に副葬品に武器が見当たらないことなども共通する。チェルニャヒーウ文化は一部でヴィェルバルク文化と互いに影響し混合したと考えられ、その地域はキエフ文化(英語版)に発展している。チェルニャヒーウ文化にも、そのゴート的な色彩を持つ一形態と言えるキエフ文化にもローマやギリシアの文化からの影響が見られる。ただし、ヴィェルバルク文化の担い手全てが一群となって黒海まで移動したわけではなく、あくまで黒海沿岸部まで移動してきたグループのみが、キエフ文化の発展に影響したらしい。キエフ文化の中心的な地域について、ヨルダネスは、ゴート族のとある部族の長である人物フィリメル(英語版)によって小規模なゴート族国家オイウム王国(Gothic kingdom of Oium)が成立したとしている。実際にこのキエフ文化の地域がゴート族の黒海沿岸地方進出の足掛かりになっている。

チェルニャヒーウ文化はもともと大規模な穀物栽培を中心とした農耕と、河川を運搬手段として用いた農産物輸出を主体していたが、黒海北方は原スラヴ人である農耕スキタイチェルノレス文化の時代からスキタイ人やギリシア人へ同じようにさかんに穀物を輸出していた大穀倉地帯であり、チェルノーゼム(黒土)が広がる肥沃な土地であった。良質な陶器が作成されており、ローマ帝国と大規模な商取引も行っていた。遺跡からは、ローマの貨幣が大量に見つかることもあるうえ、ローマから輸入された品も見つかっている。チェルニャヒーウ文化文化はスラヴ人サルマタイ人の混合文化と考えられ、ゴート族固有のものではない。遠方からやってきて異質な文化を持つゴート族はその中でも独特の存在だったことは確実で、ローマ帝国に近く、ゴート族南下の道筋にあたる西部では、ギリシア文字ラテン文字に影響を受けて独自のルーン文字ゴート語)を完成させ、340年頃には司教ウルフィラによってゴート語訳聖書が著されている。

ヨルダネスによれば、カルパティア山脈からドン川に至る南ロシア一帯に居留したゴート族は、エルマナリク王の代に王国を築いた。エルマナリクは、後に東ゴート王国を興すアマル家の祖と言われているが、この当時のゴート族の王国については、記録が少ないために判然としない。ただ、ローマ帝国のような国家機構があったわけでも、国境というものの意識もなかったようである。ヨルダネスによれば、このときすでにドニエストル川からドン川の平原を占有していたグルツンギ・アウストロゴティとカルパティア山脈からドニエプル川一帯にかけて居留したテルヴィンギ・ウィシゴティに分裂していたことがうかがえる。それぞれ東ゴート族、西ゴート族とされるが、これらが直接的に後の東ゴート王国西ゴート王国を打ち立てたグループに分かれたわけではないようである。例えば、詩人クラウディアヌスはフリギアに侵入したゴート族について、「グルツンギを含んだ東ゴート族」と説明し、グルツンギと東ゴート族をはっきり違うものと認識している。

4世紀までに確認されるゴート族は、西ゴート系として3グループ[注釈 3]、東ゴート系として2グループ[注釈 4]、所属不明なものとして7グループ[注釈 5]、つまり12の勢力が確認される[要出典]。

このうちテルヴィンギ・ウィシゴティとして2つのグループが糾合し、その他はグルツンギ・アウストロゴティとして、ゴート族以外の民も含め、エルマナリクを王とするゆる連合勢力を形成していたと考えられる。ただし、エルマナリクは、ヨルダネスが述べているような全ゴート族の王、というわけではない。考古学的には、チャルニャコヴォ文化には、少なくとも6つの大きな集落が発掘されており、それぞれに王ないしはそれに近い権力者がいたと考えられる。エルマナリクはその幾つかの集団の中で特に強力な人物であったか、あるいは実際にかなりの集団を制していたのかも知れない[要出典]。
フン族の襲来各部族によるローマ帝国への侵入要図

マルケリヌスによれば、東方から襲来したフン族は、370年前後にカスピ海からドン川に至る地域に住んでいたアラニ族を破り、東ゴート族の支配領域(en:Greuthungi)に到達した[8]。バラミール(英語版)(Balamir、在位: 360年 - 378年 (?))[注釈 6]と呼ばれる王に率いられた[9]フン族の襲来によって、東ゴートの王エルマナリクは自殺してしまったとされる[10][11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:66 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef