『仁義なき戦い』の成功で、東映は任侠路線から実録路線に舵を切り、任侠路線で活躍していた高倉健は主演が減ると危惧[7]。独立をほのめかす高倉を残留させたい東映は[8][9]、映画化に全く乗り気でないさいとう・たかをが提示した条件「オール海外ロケ」「主演は高倉健[注釈 13]」という要求を全て受け入れ、製作が決まった[8][9][10]。
俊藤浩滋は「『日本で撮影するなら映画化を認めない』という条件は困難なものばかりで苦労した」「イランの映画会社“SOCIETE ANONYME CINEMATOGRAPHIQUE IRAN”から協力を取り付け、製作費を捻出してもらった[6]」と述べている。1973年の7月に製作決定を公表した[7]。
佐藤純弥は「日本とイランの間を行き来している某人物が『イランの政府も軍隊も全面協力する』と持ち込んできたので、東映は乗った[11]」「ヤクザ路線の一環として本作を捉えており、ヤクザものが頭打ちになってきているから、ちょっと変わったものをということで、人気を集めていたさいとう・たかをさんの劇画を原作に映画化しようと考えた。高倉健は任侠ものから実録路線の切り替えに馴染めず、活路を開きたいと思っていた[11]」と述べている。 さいとう・たかをは綿密な脚本を書き、演出の指定もした[10]。しかし俊藤浩滋は「原作が短編でつまらない。読むのならおもしろいかもしれないが、映画の2時間枠に収めるとなると、ドラマのうねりが必要[6]」とさいとうの脚本に困惑し、佐藤純弥はこの脚本通りに撮らなかった[10]。佐藤は「さいとうさんの書いてきた脚本では、膨大な予算を費やす内容だった。東映で製作できる規模のものでなく、当然ながらさいとうさんは映画製作の内情などご存知ないから、予算のことを考えて書かれてはいない。劇画の脚本と映画の脚本とでは、同じようでいてもやはり違う。こちらで書き直さないと撮影は無理だろうということになった[11]」と述べている。 さいとうが執筆した脚本は『ビッグコミック増刊 ゴルゴ13総集編 Vol.6』に掲載されており、脚本通りに撮られなかったことについて、さいとうは「当初思い描いた作品とはまったく違うものとなった」として不満を表明している[10]。 主演の高倉健以外はすべて外国人俳優で、イラン人の俳優は高倉の相手役にトップスター・プリ・バナイ
脚本と配役
全編がイランでロケーション撮影され、佐藤純彌はオールイランロケと述べているが[11]、週刊映画ニュース
は「イランロケの後、日本のスタジオで少し撮影が行われた」と報道した[7]。パフラヴィー朝の時代だったので、なんでもパフラヴィー一族に話を通さないとロケは進まなかった[6]。街並み、豚肉料理および飲酒の風習、ヒジャブを着用することなく街を出歩く女性など、1973年10月に勃発した第四次中東戦争や1979年のイラン革命以前のイランが見られる貴重な映像資料となっている[11]。テヘランを皮切りに、イスファハン、ペルセポリスなど、45日間程度行われ、移動にかなり時間を取られた[11]。高倉健は日本語で演じ、外国人俳優のセリフは日本人声優によるオール吹き替えである[10]。外国好きでゴルゴ13のような「かっこいい役」を、高倉は気に入っていたこともあって、撮影を楽しんでいた[6]。佐藤純弥は「いざ現地に乗り込んでみたら、某人物が言っていたイラン政府も軍隊も全面協力するという話は全て大ボラだった。ほとんど詐欺にあったようなもので、一からやり直さなければいけなかった。止まってしまうことの連続で無駄な10日くらいを過ごし、滞在日数は決まっているから、脚本がどうこういったレベルではなく、撮影スケジュールを削って撮影していくしかない。脚本直しを毎日やって追いつめられるだけ追いつめられた[11]」「助監督やプロデューサー、技術パートなど現地スタッフと共同作業するというのが当初からの条件で、それだけは叶えられた。当時のイランは全てサイレント映画だったので、シンクロを学ぶという大義名分もあったようだが、問題は俳優が台詞を喋るという訓練を全然してきていない。最初から日本語吹替での上映が決まっていたから大きな問題ではなかったですけど[11]」と証言している。そのため字幕スーパーは無く、イラン語ヴァージョンは存在しない[11]。 正月大作としては異例の華のない会見となり、スポーツ新聞のキャメラマンは、これでは絵にはできないと席で配布されたキャビネ(120mm×165mm)写真を利用した[2]。会見前にイランロケが決まれば、イランの映画局"サシ"の全面協力の約束を取り付けており、1973年10月29日からクランクインし、テヘラン、イスファハン、ペルセポリスなどで撮影を行い、12月中旬クランクアップ、12月29日から東映正月映画として公開すると告知されていた[2][3]。
発表