ゴルギアス_(対話篇)
[Wikipedia|▼Menu]
内容も、多くはそれまでの初期対話篇の反復でありながら、アポリア(行き詰まり)で終わることの多かったそれまでの対話篇と異なり、最初期の『ソクラテスの弁明』や『クリトン』のように、饒舌なソクラテスによって明確な答え・主張が読者に提示されており、また一方では、「知識」と「信念」(思惑)の区別(454D)が言及されたり、オルペウス教ピタゴラス教団の教義がはじめて取り上げられたり、あるいは、「正・不正、善・悪、僭主 (独裁者) と幸福、自然(ピュシス)と社会法習(ノモス)、強者の論理、(真の)優秀者支配、節制/自足と幸福、(最)善を目的とする真の政治術と国家」といった『国家』の内容を先取りする、その原型とも言える議論が展開されていたり、また、本篇の「弁論術批判」というモチーフが、中期の『パイドロス』で反復されるものであることなど、様々な点で、初期と中期をつなぐ過渡的・象徴的な性格を持ち合わせた作品だと言える。

ゴルギアス、ポロス、カリクレスの3人と順々に、ソクラテスが対話・問答する構成となっており、文量としては、前半はゴルギアスとポロスが半分ずつ、後半は丸々カリクレスとの対話が展開される。したがって、『ゴルギアス』という題名とは裏腹に、メインの対話者はカリクレスとなっている。更に、「弁論術について」という副題が付いているものの、弁論術についての話題は、ポロスとの対話の途中から後景に退いて行き、現実政治における正・不正、善・悪といった話題が中心を占めるようになる。

また、後半のカリクレスとの対話の中では、カリクレスが「ソクラテスは自分が実につまらないヤクザな連中に法廷に引っぱり出される可能性を考えたりしないのか」(486B、521C)等と、後の民衆裁判を予見するような発言をしたり、ソクラテスが「政治に携わる者がすべき唯一の仕事は、市民をできるだけすぐれた者にすること」(515C)、「現代では唯一自分だけが本当の政治の仕事を行っている」(521D)、「アテナイ人ができるだけすぐれた人間になるように頑張り抜く」(521A)、「弁論術のような「迎合」の術を持ち合わせなかったことで死刑になるのだとしたら、動ずることなく死の運命に耐える」(522E)、「政治家の「迎合」に踊らされていた人々は、問題が生じると、その真の責任者ではなく、その傍らで忠告していた人々にその責任を負わせる」(519A)、「人々に対しても、神々に対しても、何一つ不正な行いをしなかったならば、一国の中で立派にやっていることになる」(522D)と発言するなど、『ソクラテスの弁明』や『クリトン』の内容を補足するような記述が、多く見られる。
内容

ソクラテスが、ソフィストであるゴルギアス、弟子のポロス、政治家カリクレスと、弁論術を巡って問答を交わす。

ゴルギアスとの問答では、弁論術が「正・不正」とは関係の無い、ただの見せかけの術であることが露わにされ、ソクラテスは「技術」ではなく「迎合」であると指摘する。

ポロスとの問答では弁論術の有用性について考察し、「魂」の不正・不幸を取り除くという点では役に立たないことが露わにされる。

カリクレスとの問答では、「法」や「政治」について考察し、国民の「魂」を善くするためには、「善」を目的とし、それを見極める「真の技術」「真の政治の術」こそが必要であり、弁論術のような「迎合」は必要無いことが指摘され、仮に弁論術のような「迎合」を持ち合わせず、自分の身を守れずに死刑になるようなことがあっても、不正を行わなかったのなら善く生きたことになるし、冥府でも裁きを受けることがない旨を、ソクラテスが述べる。
導入

とある公共広場にてゴルギアスが見事な演説を披露し、去った後にやって来たソクラテスとカイレポン。カリクレスは、ゴルギアスの話が聞きたいなら自宅に来ればいいと誘う。ソクラテスは、ゴルギアスに彼の持っている技術(弁論術)にはどんな力があるのか、そして彼は一体何を教えているのかを尋ねたいと言う。
ゴルギアスとの問答
「弁論術」と「正・不正」

ソクラテスとの問答によって、ゴルギアスが持っている技術は「弁論術」であり、彼は「弁論家」、そして、他の人をも「弁論家」にすることができるという点、更に、「弁論術」とは「言論について」の技術であり、それは(他の医術や体育術といった「言論絡み」の技術とは異なり)その技術の働き・目的達成が、「全て言論のみを通して成される」ものであり、更に、(他の数論・計算術・幾何学の技術とは異なり)「人間が関わる事柄の中で一番重要で一番善いもの」を対象・目的としており、それは「自由」と「他者の支配」であり、要するに(法廷・政務審議会・民会・市民集会などで)「他者を説得する能力・技術」のことである、というところまで話が絞り込まれる。

更に、それは(「各個別の対象についての説得」とも言える、他の技術とは異なり)「正・不正についての説得」であり、「知識」と「信念」の区別で言えば、後者の「信念」を扱う、つまり「相手を信じこませるための技術」であり、それによって「他の誰よりも自分が選ばれるように、他者を説き伏せることができる」「ありとあらゆる力を一手に収めて、自分の下に従えることができる」ものである、というところまで話が絞り込まれる。

また他方で、ゴルギアスは、その弁論術を用いるにあたっては、格闘術と同じような「心掛け」が必要であり、誰に対しても見境なくこれを用いていいわけではなく、「正しく」用いられなくてはならないとも付け加える。ただし、仮にそれを不正に用いた者が出てきたとしても、その「不正者」は批難されるべきだが、それを授けた者が批難されるべきではないとも述べる。


ソクラテスは、弁論術がゴルギアスが言うには「正・不正についての説得」であり、またその「使用の正しさ」(心掛け)に言及するようなものでありながら、「不正に用いる者」が出てくることもある、という点に引っかかる。

弁論術が、無知な大衆を前にして、自分を、知識を持った他者よりも知識を持っているように見せる・思わせるだけのものであり、話題となるそれぞれの対象・技術を少しも知っておく必要が無い、「説得の工夫」を見つけ出しておきさえすればいいだけのものであるとして、「正・不正」「美・醜」「善・悪」に対しても、やはり同じように知っておく必要の無いものであるという扱いをするのか、それともそれらだけは別で、ちゃんと知っておかねばならないという扱いなのか、また、後者であるとして、ゴルギアスに弁論術を学ぼうとする者は、それらについての知識をあらかじめ持っておく必要があるのか、それともそれらも一緒にゴルギアスが教えてくれるのか、問う。

ゴルギアスは、もし学習者がたまたまそれら(正・不正)を知らないでいるのであれば、それらも併せて教えることになる、と答える。

ソクラテスは、そうなるとゴルギアスに弁論家にしてもらった者は、「正・不正」についても知っている者であり、「正しい人」「不正を行わない人」であるはずにもかかわらず、先程の話では「不正を行う者」もいるという、果たしてその真相はどうなのかと疑問を提起する。



ポロスとの問答
「技術」と「迎合 (追従/へつらい)」

そこでポロスが話に割り込む。弁論術と「正・不正」等は直接関係が無いのにもかかわらず、ゴルギアスは、それを教えないと言うのは皆の手前はばかられるので、あえて教えると言っただけなのに、そこをことさら言挙げして矛盾だと主張し、否定しようとするのは失礼だと、ソクラテスを非難する。

更にポロスは、それではソクラテスは弁論術を一体何だと、どんな技術だと主張したいのか問う。ソクラテスは、弁論術は技術と呼べるようなものではなく、化粧法・料理法・ソフィストの術と同じ類の、喜び・快楽を作り出すことについての経験・熟練に過ぎず、「迎合 (追従)」(コラケイア)と呼ぶべきものであり、「政治術の一部門の影」のようなものであり、醜く、劣悪なものであると述べる。

ゴルギアスに詳細を尋ねられて、ソクラテスは、身体と魂についての、「理論」を備えた正当な技術には、それぞれ2部門、計4部門の技術があり、身体についての技術には「体育術」と「医術」、魂についての技術(これを「政治術」と呼ぶ)には「立法術」と「司法・裁判の術」がある、そして、この4つのそれぞれの下に、それらの「理論」を備えず、「最善」を考慮せず、「快」を餌にして無知な人々を釣り、欺く術である「迎合 (追従)」として、「化粧法」「料理法」「ソフィストの術」「弁論術」の4つがもぐり込んでいると説明する。


【「技術」と「迎合 (追従)」】

「身体」についての技術

「体育術」 (←「化粧法」)

「医術」 (←「料理法」)


「魂」についての技術 【政治術】

「立法術」 (←「ソフィストの術」)

「司法・裁判の術」 (←「弁論術」)


議論はそのまま、ソクラテスとポロスの問答に移行する。



「独裁者」と「正・不正」

ソクラテスは、各国の弁論家たちや、独裁者たちは、「一番力がある者」などではなく、むしろ「一番力が無い者」であり、「自分達に一番いいと思っていること」は行っているが、「自分達が本当に望んでいること」は何一つしていないと述べる。本来自分達が望み、目的としているはずの「善」が何であり、その反対の「悪」が何であるかを判断できないまま、ただ思い通りに振る舞っているだけなのだからと。

ソクラテスは、いかなる力も、「正義」に従って行使される場合は「善」であり、「不正」に行使される場合は「害悪」であると述べるも、ポロスは、奴隷身分でありながら謀略・殺害を繰り返して王位を簒奪したマケドニア王国アルケラオス1世を例に出し、「不正を行っていながら、幸福な人間は数多くいる」と反論する。

ソクラテスは、ポロスが「不正を行っても、裁きを受けず、罰を受けないなら、幸福である」と考えているが、自分は「不正な人間」は皆不幸だと考えるし、その中でも、むしろそうした「裁きも受けず、罰を受けない者」の方が、より不幸であると考える、と述べる。

ポロスは、それでは「独裁者に家族もろとも拷問・処刑される者」が、その独裁者よりも幸福なのかと非難する。ソクラテスは、どちらも不幸だが、どちらが不幸かと言えば、やはりその独裁者の方が不幸だと述べる。ポロスは呆れて嘲笑する。



「正・不正」と「善・悪」「美・醜」

ソクラテスは、ポロスに対して、「不正を受けること」と「不正を行うこと」は、どちらがより「害悪」「醜い」かを問い、ポロスは、

「不正を受けることは、より「害悪」」

「不正を行うことは、より「醜い」」

と答える。そこでソクラテスが、「悪」と「醜」(また「善」と「美」)を、別ものだと考えるのか問うと、ポロスは、もちろん別ものだと答える。

そこでソクラテスは、「美」とは「快楽」と「有益(善)」のどちらか一方ないしは両方ではないかと問う。ポロスも、同意する。ソクラテスは、それでは反対の「醜」は「苦痛」と「害悪(悪)」のどちらか一方ないしは両方になるのではないかと問う。ポロスも、同意する。

するとソクラテスは、「不正を行うこと」が、「不正を受けること」よりも、より「醜い」のであれば、それは「より「苦痛」か、より「害悪(悪)」か、その両方」ということになるが、他方で「不正を行うこと」が、「不正を受けること」よりも、より「苦痛」ではない以上、必然的に、より「害悪(悪)」であるということになり、先の発言と矛盾することを指摘。ポロスも、同意する。ソクラテスは、それではそのような、より「醜」かつ「害悪」なものを、選ぶ人間はいるのか問う。ポロスは、今の議論に従う限りはいないと否定する。


【「美」と「醜」】

「美」 - 「快楽」と「有益(善)」のどちらか一方ないしは両方

「醜」 - 「苦痛」と「害悪(悪)」のどちらか一方ないしは両方


【「不正を受ける」と「不正を行う」】

「不正を行う」=より「醜」
=より「苦痛」or/and より「害悪(悪)」
=(「不正を受ける」よりは「苦痛」では無いため、必然的に)より「害悪(悪)」
=より「醜」であり、より「害悪(悪)」
→ ポロスの矛盾、「醜」と「害悪(悪)」の一致



「三劣悪」と「解放技術」

ソクラテスは、「裁きを受ける」という受動行為は、能動主体にとっては「懲らしめる」ということであり、それは「正義」に従って「懲らしめる」、すなわち「正しいことをする」ということであり、したがって、受動者にとっては「裁きを受ける」ということは、「正しいことをされる」ということでいいか問う。ポロスも、同意する。ソクラテスは、先の議論から、「正しいこと」は「美しいこと」であり、それは「快楽」と「有益さ(善)」のどちらか一方ないしは両方であり、「裁きを受ける」ことが「快楽」ではない以上、それは「有益さ(善)」ということになると指摘。ポロスも、同意する。

ソクラテスは、では「裁きを受ける」ことによって受ける「利益(善)」とは、「魂の上でより優れた者になる」「魂の劣悪から解放される」ということでいいか問う。ポロスも、同意する。

ソクラテスは、「財産」「身体」「魂」についての3つの劣悪の中では、「魂」についての劣悪、すなわち「不正」が最も「醜い」のではないかと指摘。ポロスも、同意する。ソクラテスは、「醜い」ということは、「苦痛」と「害悪(悪)」のどちらか一方ないしは両方ということであり、「魂の劣悪」が、「財産の劣悪」や「身体の劣悪」よりも「苦痛」とは言えない以上、「魂の劣悪」は「害悪(悪)」ということであり、「最大の悪」ということになると指摘。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:55 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef