1746年、スペイン北東部サラゴサ近郊のフエンデトードス(スペイン語版)(当初はFuentedetodos フエンテデトードスと呼ばれていた。la fuente de todos“総ての者の泉”という意味)に生まれた。父親は鍍金師であり、芸術を愛好する気風の中で育った。
14歳の時から約4年間、サラゴサで地元の画家に師事して絵画の修行をする。この間、のちに義兄となる、兄弟子・フランシスコ・バエウ、その弟ラモーン・バエウ(英語版)に出会う。1763年と1766年の2回、サン・フェルナンド王立アカデミーに出品したが落選している。
1770年、大画家を目指してイタリアのローマに出た。イタリア滞在中にルネサンスの傑作に出会い、フレスコ画の技法を学んだ。パレルモ・アカデミーから奨励賞を受け、1771年に帰国した。1772年にサラゴザのピラール聖母教会から大聖堂の天井装飾の注文も受け、そのほかのことも任された[3]。27歳で、バエウの妹ホセーファ・バエウ(英語版)と結婚。
1774年、バエウの手引きでマドリードへ出て、1775年から十数年間、王立タペストリー工場でタペストリーの下絵描きの仕事に携わる。
1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となる。
このように、40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たが、1792年、不治の病に侵され聴力を失う。代表作として知られる『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『裸のマハ』[注釈 1][3]、『マドリード、1808年5月3日』[注釈 2][3]、『巨人』などはいずれも聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。
1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインへ侵攻し、翌1808年にはナポレオンの兄ジョゼフをホセ1世としてスペイン王位につけた。事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年にかけてスペイン独立戦争のさなかにあった。
こうした動乱の時期に描かれたのが『マドリード、1808年5月3日』、『巨人』などの作品群である。1810年には版画集『戦争の惨禍』に着手している。1815年、すでに69歳に達していたゴヤは、40歳以上も年下のレオカディア・バイス(Leocadia Weiss)というドイツ系の家政婦と同棲していた(妻ホセーファはその3年ほど前に死去)。
1819年、マドリード郊外に「聾者の家」(es:Quinta del Sordo)と通称される別荘を購入した。1820年から1823年にかけて、この「聾者の家」のサロンや食堂を飾るために描かれた14枚の壁画群が、今日「黒い絵」と通称されるものである。
当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年、78歳の時にフランスに亡命し、ボルドーに居を構えた[4]。1826年にマドリードに一時帰国し、宮廷画家の辞職を認められるが、1828年、亡命先のボルドーにおいて82年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
現在はマドリードのプリンシペ・ピオ駅にほど近いサン・アントーニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂(スペイン語版)、通称:ゴヤのパンテオン (Panteon de Goya) に眠っている。この聖堂の天井に描かれたフレスコ画、『聖アントニオの奇跡』もゴヤの作品である。なお、遺骸の頭蓋骨は失われている。亡命先の墓地に埋葬されている期間に盗掘に遭ったためだが、その犯人も目的も、その後の頭蓋骨の所在についても一切が不明のままである。