マイケルのパートでは、過激な資本主義が前作以上に公権力や政界にまで深く及び、腐敗していることを描いている[14]。企業国家アメリカの肥大化、すなわち過激な資本主義社会の地理的拡大のピークとしてキューバが取り上げられ、その結末としての「キューバ革命」を描くことで、三部作共通のテーマである反資本主義を明示している[14]。父ヴィトーの期待や妻ケイの願いに応えるため、そして家族を守り繁栄させるために、組織の合法化とその正当化に努めるマイケルであったが、結局合法化への道は資本主義への傾倒にしか見出せず、その達成のために残虐非道な罪を重ね、そして家族を失っていくという深いジレンマに陥っていく[13][15]。独立志向の強い典型的なアメリカ人女性であるケイは、前作ではマイケルへの愛を根拠に旧世界的な家父長制に従うことに努力していたが、本作では、女性としての権利を主張するための最も過激な手段である「男児の堕胎」を通じて、フレドの裏切りやコニーの反発[注 1]とともに、マイケルを家長とする家父長制の崩壊が示された[17]。トム・ヘイゲンとフランク・ペンタンジェリの間で交わされた「ローマ帝国の滅亡」の話もまた、古代ローマの家父長制「ファミリア」の崩壊と比喩的に結び付けられている[18]。ラストの過去を回想するシーケンスでは、マイケルの個人主義とブルジョワ的価値観の直接的な結びつきを示しており、”普通”のアメリカ人になりたいというマイケルの切実な願望を描いている[14]。 本作に対する当初の批評家たちの評価は分かれており[19]、作品を否定する者もいれば、前作より優れているとする者もいた[20][21]。撮影と演技はすぐに称賛されたが、批判の多くはテンポが悪すぎて複雑であるというものであった[22]。 『ニューヨーク・タイムズ』のヴィンセント・キャンビーは、この映画を「余ったパーツで縫い合わせている。それは話す。しかし、それ自体には心がない......。筋書きはどんな合理的なあらすじも無視する」と評価した[23]。『ニューリパブリック
評価
批評家
ロジャー・イーバートは、4点満点中3点をつけ[25]、フラッシュバックは「コッポラにペースと物語の力を維持する上で最大の困難を与える」と書く[22]。また、「マイケルの物語は、時系列で語られ、他の素材がなければ、実に実質的なインパクトを持つはずだが、コッポラは緊張感を壊すことによって、私たちの完全な関与を妨げている」と述べている[22] [25]。