このような交流から生まれたラディとマフィアとの友情が、製作の歯車になった[95]。脅迫や抗議はぴたりと止み、イタリア系アメリカ人公民権同盟は、以前と打って変わって、地元住民を訪問してクルーに協力するよう働きかけを行った[94][95]。また、コッポラが切望していたリトル・イタリーやスタテン島のロケも実現させた[95]。例えばスタテン島では、ある土地の所有者が撮影を拒否したとき、ラディはコロンボに連絡し、コロンボはその所有者を脅して、考えを改めさせた[95]。ラディは、1972年のレディズ・ホーム・ジャーナル(英語版)誌のインタビューにおいて、マフィアとの取引について、「誰も身体的に傷つけられることはなかったと思う」と弁明したが、「でも、彼らの承認がなければ、この映画は作れなかったんだ」とも打ち明けた[95]。
しかし、製作に大きく貢献したジョゼフ・コロンボは、撮影開始から66日後の1971年6月28日、コッポラが映画のクライマックスシーンを撮影していた場所からわずか数ブロック先の通りで、何者かによって銃撃された(銃撃者も直後何者かに殺害された)[注 7][95][97]。この事件は、『ゴッドファーザー』への関与を含むコロンボの派手な活動を快く思わなかった五大ファミリーによる仕業とされ、なかでも首謀者と目されたジョーイ・ギャロは、映画公開直後の1972年4月7日にコロンボ・ファミリーの報復により殺害される[32]。
これらのマフィアの妨害や協力ぶりと撮影中の抗争の勃発は当時センセーショナルに取り上げられ、映画の宣伝と話題に輪をかけた[32]。 1970年の終わり頃からキャスティングは開始された[103]。ロバート・エヴァンスが回想録のなかで「コルレオーネ家の配役をめぐる争いは、コルレオーネ家がスクリーン上で繰り広げた争いよりも苛烈だった」と記すほどにキャスティングは難航した[32][104]。コッポラは、当初から数人の主要な役を最終的なキャスティングと同じ俳優で想定していたが[注 8]、パラマウントがそれをなかなか認めなかったこともあり、多くの候補が検討された[32]。そのため、最終的にパラマウントは42万ドルをスクリーン・テストに費やした[32]。
キャスティング
ヴィトー・コルレオーネ役
マーロン・ブランドがヴィトー役を演じる際に使用したマウスピース原作者のマリオ・プーゾは、ドン・コルレオーネについて、ジェノヴェーゼ・ファミリーのボスであったフランク・コステロをキャラクターの土台とし、女手ひとつで7人の子供を育てたイタリア生まれの母親から教わった言葉を台詞として吹き込んだが、その顔のイメージはマーロン・ブランドであった[32]。プーゾは、「あなたはゴッドファーザーの静かな力と皮肉を演じることができる唯一の俳優である」と記した手紙をブランドに送った[32][105]。マーロン・ブランドがドン・ヴィトー・コルレオーネを演じることに最初に興味を示したのは、このときであった[105]。