ゴジラ
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映画評論家の樋口尚文は、本作品の監督である本多猪四郎への取材において「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった」という旨の言質を取っている[4]。水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくというレイ・ハリーハウゼン特撮の怪獣映画『原子怪獣現わる』(1953年)に大きな影響を受けた[5][6]『ゴジラ』の観客動員数は961万人を記録し、この成功を受けて直ちに続編が準備された後、翌1955年に公開された第2作『ゴジラの逆襲』では怪獣同士の対決が初めて描かれた。しかし、この後しばらく東宝はゴジラ以外の怪獣・特撮映画の製作に注力し、ゴジラシリーズの新作の企画は途絶えることとなる[7][8]

7年後の1962年に公開されたシリーズ第3作『キングコング対ゴジラ』は、アメリカの映画キャラクターキングコングとの対決作品として制作された[9]。明るい作風で当時人気を博していたプロレスさながらの対決を描いた『キングコング対ゴジラ』は、当時の歴代邦画観客動員数第2位の記録となる1,255万人を動員し[9]、アメリカなど日本国外でも上映されて大ヒットとなる。以降、日本国外で好調なセールスを買われた昭和ゴジラシリーズは、外貨獲得の手段として1960年代には矢継ぎ早に新作が製作された。

第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』でゴジラが人類の味方としての戦いを見せて以降、ゴジラは恐怖の対象として役目が希薄になる[10]。次第に娯楽作品へのシフトが進み、当初のテーマであるSFとしての特色もシリアス路線からエンターテインメント性重視のものに変わっていく[11]第一次怪獣ブームにより競合作品が増え、ゴジラの有り様も変化していった[11]。第12作『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』以降は完全に正義のヒーローとして描かれるようになった[12]

当時の「邦画の斜陽」による深刻な興行不振や家庭へのテレビ普及などもあり、新作を公開するたびに観客動員数は前作を下回っていった[8]。この時期はテレビアニメ最盛期だったことからも、テレビ作品と混載5 - 6作品混合プログラム『東宝チャンピオンまつり』内の1作という扱いになった[13][8]。円谷英二の死去や東宝の制作体制の変化などもあり[14]、上映時間は短縮されて制作費も縮小された結果、特撮シーンの多くに過去作品の流用フィルムが多用されるようになる。そして、1975年に公開された第15作『メカゴジラの逆襲』では観客動員数97万人と、歴代ワースト1位を記録した。これを受け、東宝は巨額の予算がかかる怪獣映画を封印することを決定し、シリーズは1984年まで長い休止期間に入る。
平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)
シリーズの経緯(vsシリーズ)

1983年になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区などで過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された[15]

1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに、第16作『ゴジラ』が製作された。第16作は第1作をオマージュした作風であり、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。ストーリー上も第1作の直接の続編という形をとっており、ゴジラは1954年に一度だけ日本を襲って倒され、30年ぶりに新たな個体が日本を襲ったという設定であった[16]。以降の平成シリーズは第16作の続編である。

第16作では、都市の高層化に合わせ、ゴジラの身長を50メートルから80メートルと大型化された[16]。さらに後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は100メートルとなった[17]

5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開されるが、観客動員数は振るわなかった。

その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された[18]

第2期の初期(『ゴジラ』『ゴジラvsビオランテ』)は高齢化した当時のゴジラファンをターゲットにしていたためストーリーもマニア層向けであった。しかし実際の観客は親子連れが多数を占めていたため、徐々にファミリー向け娯楽映画にシフトしていき、内容もファンタジー要素やエンターテイメント性が強くなっていった。また『ゴジラvsビオランテ』が評価を得なかったため、その後は昭和の人気怪獣の再登場路線となる[19]。『ゴジラvsキングギドラ』以降は動員数も大幅に向上し、スタジオジブリ作品などと並び、毎年の邦画興行ランクの1・2位を争うドル箱シリーズとして定着していった。

その後、ハリウッド版『GODZILLA』の製作決定をきっかけとし、いったんシリーズの終了が決定[注釈 2]。シリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』で劇中ではゴジラの「死」を描きシリーズが終了した[20]。シリーズ7作品の観客動員数合計は2,330万人、総配給収入は119億3,000万円におよぶ[21]

このゴジラ休止の時期には、平成モスラ3部作が公開された。
シリーズの特徴(vsシリーズ)

総称として、平成ゴジラシリーズ、VSシリーズ、復活ゴジラシリーズなどの呼称が用いられている[22]

「平成ゴジラシリーズ」は、シリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』の全7作まで一貫した世界観となっており、『ゴジラvsビオランテ』で初登場した超能力少女・三枝未希(演:小高恵美)がシリーズの要として続けて登場している。ゴジラは一貫して人類の脅威として描かれ、対決相手は人類側の兵器ないし味方(メカキングギドラ、モスラ、メカゴジラ、モゲラ)あるいは三つ巴の戦いとなっている。後半、『ゴジラvsメカゴジラ』からは自衛隊に代わる新たな対ゴジラ組織・Gフォースと新怪獣のベビーゴジラ(後のリトルゴジラ)が登場した。なお「VSシリーズ」と「ミレニアムシリーズ」(『FINAL WARS』以外)は映画製作・公開年の翌年を物語の舞台にしている。クライマックスとなる戦場には公開当時に話題となった名所が選ばれることが多い(新宿都庁、みなとみらい、幕張メッセなど)。

この当時は、主に新作公開の時期に合わせて『金曜ロードショー』(vsモスラ)、『水曜ロードショー』(vsビオランテ)、『ゴールデン洋画劇場』(vsキングギドラ、vsスペースゴジラ、vsデストロイア)などのゴールデン枠でも作品が全国ネット放映され、高視聴率をマークしている。

この当時に防衛庁の広報課で対外広報を担当していた潮匡人によれば、1992年ごろにゴジラ映画に対する協力体制が本格化したという[23]

各作品の別名として『ゴジラ』を『ゴジラ1』とするナンバリングタイトルが存在し、(例:『ゴジラvsメカゴジラ』=『ゴジラ5』、『ゴジラvsスペースゴジラ』=『ゴジラ6』、『ゴジラvsデストロイア』=『ゴジラ7』)劇場版本編終了後の特報などで見られる。

このシリーズでは特殊技術を川北紘一(『ゴジラ』のみ中野昭慶)、ゴジラのスーツアクターは昭和シリーズでヘドラ、ガイガンを担当した薩摩剣八郎が務めている。休止期間中の1997年には第1作からゴジラ映画を製作し続けてきた田中友幸が死去し[24]、ゴジラシリーズとしては『ゴジラvsデストロイア』が最後の参加となった。
海外製作作品(トライスター版)

1998年にトライスター ピクチャーズ提供による『GODZILLA』が公開された。興行面では世界的に成功を収めたものの、軽快な作風のモンスタームービーに仕上げられた作品は従来のゴジラ像の乖離から日米のゴジラファンを満足させるものではなかった[25]。今までに無い生物感溢れるゴジラの造形や劇中のVFXは評価されたものの、第19回ゴールデンラズベリー賞で最低リメイク賞、最低助演女優賞を受賞。


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