ゴジラ_(1984年の映画)
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1978年6月から1980年秋にかけては中西隆三や村尾昭によって脚本が書かれたが[出典 65][注釈 39]、採用には至っていない[注釈 40]。SFブームの本格化と並行してリバイバルブームも発生し、ゴジラシリーズでも「ゴジラ映画大全集」と題したリバイバルイベントやアニメ映画『ドラえもん のび太の恐竜』(1979年)の併映として『モスラ対ゴジラ』が再上映されるなどの動きはあったが、いずれも評判は芳しくなく、この時点ではゴジラの復活は時期尚早と判断された[69][39]

1980年代に入り、ヘンリー・G・サパースタインから合作の申し入れもあり[注釈 41]、日米双方から提示されたストーリーを元に2本の脚本が書かれたが、これも立ち消えとなった[出典 67][注釈 42]

SFブーム・リバイバルブームの中で、それらのファン層(おたく)が存在感を増していき、そうしたマニア向けの書籍・レコード・ビデオソフトなどの発売が相次いだほか、ファンイベント「特撮大会」が開催されるなどファン側の活動も活発化しており、その渦中で新作ゴジラの待望論も高まっていた[69][39]。1983年8月に新宿ミラノ座で行なわれた「ゴジラ復活祭1983」[注釈 43]が好成績を挙げたことで[出典 68]、東宝社内にくすぶっていた再製作気運が盛り上がった後、同年12月26日に「ゴジラ復活準備委員会(G委員会)」が東宝社内に発足した[39]。G委員会のメンバーには、委員長に取締役映画営業担当兼映画調整部長(1984年6月から映画調整部長兼宣伝部長)の堀内實三、副委員長に田中友幸、筆頭幹事に取締役映画興行担当の石田敏彦ら当時の東宝の首脳陣が揃い、東宝全社をあげての大プロジェクトに発展していった[69][39][注釈 44]

1980年代に入り、東宝の正月興行はジャニーズ事務所のアイドル映画となっていたが、1983年の『エル・オー・ヴィ・愛・N・G』および『あいつとララバイ』が興行不振となったため、その穴を埋めるかたちで本作品の製作が決定した[187]
脚本

製作の田中友幸が原案としてもクレジットされているが、これは脚本作業中に田中が自身のアイデアを脚本の永原秀一へ提示し、これを膨らませるかたちでストーリーが作られていったことによる[188][78]。制作協力の田中文雄によれば、田中友幸は本作品に情熱をかけていたといい、自身が手掛けた怪獣映画の総決算としてその意向が強く反映されていたという[188]

永原秀一は1984年2月17日に『ゴジラの復活』のタイトルで検討稿を完成させ[出典 69]、それには村尾昭の最終稿にあった吸血ダニやトライデント型潜水艦ジャイアントバスがそれぞれ登場している[69][39]。しかし、同年4月2日に完成した準備稿では吸血ダニは吸血フナムシに変更され、ジャイアントバスは取り消された[39]。その後、同年5月30日に決定稿が完成し、7月16日に改討稿が完成した[39]。監督の橋本幸治は、初期の脚本はアクション・スリラー風であったと証言している[47]

本作品制作当時は、第1作公開当時のような核への恐怖は薄れており、むしろ核の平和利用が主張されていた時代であったため、時代にそぐわないとしてゴジラそのものを核の申し子とは直接謳わないこととなった[182]。しかし、田中は核を忘れてはいけないという姿勢であったため、ゴジラが原子力発電所を襲撃するシーンが、本作品で唯一ゴジラを核の脅威として描く場面として入れられた[182][注釈 45]。核の象徴としてもヒーローとしても描かれないゴジラは、生物としての要素が強調されることとなった[182]。企画段階では、ゴジラを神のような存在として描くという案も存在した[139]

その一方で、米ソの対立を軸とした政治ドラマとして戦術核問題が取り入れられた[188]。政治的な話はゴジラに馴染まないとして橋本や永原はこれも反対したが、田中の強い意向により押し切られるかたちとなった[188]


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