ゴジラ_(1954年の映画)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

これらのスタッフについては本多組の本編A班、円谷組の特技B班、向山組の合成C班の3班体制がとられた[168][23]。後の特殊技術課では合成も特撮の参加となったが、本作品の時点では合成班は本編班と直接やりとりする独立した部門となっており、円谷が合成班に直接指示することはできなかった[168]

ラストシーンの海中撮影のため「日本で最も海の水の透明度の高い処」の調査がなされた結果、伊勢志摩五ヶ所湾がロケ場所に選ばれ、同時に「大戸島」のロケ地にも決定。8月2日には鳥羽ロケの先発ロケハン隊が出発。円谷組の特撮B班がゴジラの造形などに手間取り準備が遅れたため、本多組の本編A班が特撮B班に先んじて8月7日に撮入[148][注釈 50]。「大戸島」に設定した伊勢志摩の三重県鳥羽市石鏡町(いじかちょう)(後述の「エピソード」を参照)ほかで1週間にわたるロケを行い、51日後の9月下旬にクランクアップした[146][23]

円谷組の特技B班の撮入は少し遅れて8月下旬からとなり[注釈 51]、10月下旬まで都合3か月かけての撮影となった[146][23]。円谷は若いスタッフを率い、徹夜作業を重ね凝りに凝って撮影に当たった。「朝9時にセットに入り、準備を経て17時ごろから撮入、朝の4 - 5時に撮影を終える」という連日の強行スケジュールで、スタッフからは「ゴジラは5時らにならないと終わらない」と言われた。ミニチュアの設営に時間がかかるため、大道具係から照明係に至るまで総動員してもこのような進行にならざるを得なかったのである。公開時の「東宝スタジオ・メール」に円谷は「だんだん調子が出てきてこれならと思っているうちにクランク・アップした。特殊撮影では、最高を誇るアメリカ映画界に負けない自負を持っている。自慢したいようなしたくないような妙な気持ちです」とコメントしている。一方で、有川貞昌によれば円谷は技術的な面には自身を持ちつつも、撮影中には観客が入るかどうか不安視していたという[169]

10月25日に作品が完成。東宝撮影所では初号試写後に完成を祝い、興行成功を祈って本尊にゴジラの撮影用の2号ぬいぐるみをまつり、神主役に平田昭彦、巫女役には河内桃子が扮して撮影所中庭で神式の「ゴジラ祭り」(.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}修祓(しゅばつ)式)が挙行された[23]。田中、本多、円谷らのスタッフ陣と香山滋が祈祷を捧げている。

この「ゴジラ祭り」の後、東宝の上層部、スタッフを集めて撮影所内で行われた「所内検定試写」では本編と特撮のあまりにも素晴らしい出来栄えに場内は総立ちとなり、巻き起こった万歳斉唱と大拍手はいつまでも鳴り止まなかった。そんな中、原作者の香山はラストシーンでゴジラがオキシジェン・デストロイヤーによって溶けて死ぬシーンを哀れに思い、1人座ったまま感極まって泣いていた。マスコミ向けの関係者試写が浅草宝塚劇場で行われたが、この際も香山は目を潤ませていた。円谷によると香山は作品の出来に感激し、公開後にはスタッフ一同を招いて熱海で一泊の宴席を開いてくれたという。
撮影.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}石鏡町 三重県鳥羽市石鏡町の位置.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}大戸島の神楽が撮影された鳥羽の賀多神社避難民描写が撮影された八ツ山橋映画で燃やされた銀座松坂屋の社長は「縁起でもない」と激怒した臨時災害救護所の撮影に使われた伝染病研究所

作品中に登場する「大戸島」のシーンは三重県鳥羽市の石鏡町(いじかちょう、当時は志摩郡鏡浦村石鏡地区[注釈 52])で撮影された[出典 67]。石鏡町は住民のほとんどが漁師や海女の仕事に従事する戸数200戸余り(当時)の小さな漁村であり[170][173]、ゴジラの出現・フリゲート艦隊の航行・オキシジェン・デストロイヤーを使用するための潜水といったシーンの撮影がここで行われた。伊勢志摩は『伊勢志摩』(1949年、東宝教育映画)や『青い真珠』(1951年、東宝)の両作品で監督を務めた本多にとっては馴染みのあるロケ地だった[173]。この本多班の撮影中、同じ鳥羽の神島では『栄光の影に』の製作が中止となった谷口千吉監督が『潮騒』を撮影していた[148][174]。当初、ロケ地には八丈島が予定されていた[144]

本作品の中では「島」とされているが、実際の石鏡町は島ではない。ただし、助監督として参加した梶田興治によると撮影当時の石鏡町周辺は幹線道路をはじめとする陸の交通網が未だ整備されておらず、鳥羽市街から船で2時間もかけて撮影機材を運び込むような「陸の孤島」だった[注釈 53]。この石鏡町でのロケでは、「ゴジラが出た!」と半鐘が鳴って大戸島の島民らが逃げ惑うシーンで約300人の地元住民(当時の町の人口の約4分の1[175])が日当600円でエキストラとして起用され、普段の漁師や海女の服装のまま撮影に参加している[出典 68][注釈 54]

真夏に行われた石鏡町でのロケは過酷なものだった[176][173]。町には平地がほとんどなく、海岸からいきなり山の斜面が続くリアス式海岸独特の起伏に富んだ地形であるため、ロケ隊は真夏の炎天下に重い撮影機材や荷物を持って急坂の多い未舗装の山道を登り降りすることを強いられ、疲労によって日射病にかかる者が続出する事態となった[173]。エキストラとして撮影に参加していた現地住民らはそれを見かねてロケ隊の荷物を持ったり撮影機材を運んだりして手助けしてくれたため、苦労していた俳優やスタッフは感激して住民らに深く感謝した[173]。こうした光景を目にした監督の本多猪四郎は、「こんなに親切な人々が暮らす集落をゴジラが襲って破壊することにしているんですからね」と嘆いている[173]

山根博士役を演じた志村喬も、ロケについて「石鏡の集落には旅館などの宿がないので、ぼくらは毎日、鳥羽から1時間半くらい海上保安庁の船に揺られて石鏡に通っているのですが、船酔いと日射病で毎日数名の女優さん方が倒れています。石鏡の港に船が着いたら、今度はそこから撮影場所の山頂まで急勾配の坂道を1時間くらい登っていかなくてはいけない。ようやく山頂にたどり着いたころにはみんなヘトヘトでね、とても撮影どころじゃないです。なるほど、こんな秘境ならゴジラが出てきても何もおかしくはないなと妙に納得しましたよ」と語っている[178]

石鏡ロケではゴジラが大戸島に上陸して姿を現し、それを目撃した島民と調査団一行が恐怖のあまり逃げ惑うというシーンの撮影がメインだったため、突如として巨大な怪物が目の前に出現したと想像したうえで演技してもらう必要があった[173]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:650 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef