ゴジラ_(1954年の映画)
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この初稿の時点で、5月23日 - 24日に正式に円谷英二が参画することとなった[141][23][注釈 40]

円谷は1952年(昭和27年)の春に「海から現れた化け物のようなクジラが東京を襲う[注釈 41]」、また、1953年(昭和28年)には「インド洋で大が日本の捕鯨船を襲う」という特撮映画のプロットを企画部に提出していた[出典 59][注釈 42]。この円谷の企画の着想は、1945年(昭和20年)の東京大空襲の最中、防空壕に避難していた時に思いついたものであり、家族に対しても、これで戦争の恐ろしさを書いてみたいと語っていた。このいきさつもあり、円谷は怪獣の設定を「大蛸」にすることを提案した[出典 60]。一方、田中は「(当時の)世情に合う」としてこれを「太古の恐竜」とすることを主張、結果として田中案が採用され、主役の怪物のキャラクターは「太古の恐竜」となった[出典 61][注釈 43]

田中は監督に、前年に2本の特撮作品『太平洋の鷲』と『さらばラバウル』で円谷と組んだ本多猪四郎を抜擢[出典 62][注釈 44]、また、同じく前年に円谷と日本初の立体映画飛び出した日曜日』を撮った村田武雄に脚本を依頼し、本多と村田の2人で脚本製作に入った[146][23][注釈 45]。田中友幸は、題名が『海底二万哩から来た大怪獣』では長いので、もっと良い題名はないものかと考えあぐねていたところ[注釈 46]、プロデューサーの佐藤一郎から、当時東宝演劇部にいた"「クジラ」が好物で「ゴリラ」のような容貌"をした網倉志朗(後の東宝演芸部部長)という人物のあだ名が「グジラ」だと聞きつけ、語呂の良いこのあだ名を参考にし、「ゴリラ」と「クジラ」を合わせて「ゴジラ」とした[出典 64][注釈 47]

村田と本多による「G作品 準備稿」が仕上がると、「ピクトリアル・スケッチ」(場面ごとに画にしたイメージ・ボード)が制作された[出典 65]。美術監督の渡辺が飯塚定雄ほか、4、5人の学生を指導して描き上げた、全228シーン、306カットに上るこの絵コンテは企画室に張り出され、森らスタッフを前に、村田が説明を行い、検討が重ねられた[76][23]。浅井正勝によると、ゴジラの吐く「白熱光」や「光る背びれ」は、こうした検討段階で「かっこつけ」で生まれたアイディアだったという[165]。この検討会議が終わると、森は「成功疑いない」と宣言したという[76]

次に「ゴジラ」のデザインが検討され、『サンケイ新聞』夕刊で『山男ダンさん』を連載中だった漫画家の阿部和助にデザイン画が依頼されたが、この起用は、「関係者による子供たち相手のアンケートの結果による」と当時報じられている。阿部のデザインはキノコ雲のイメージが強すぎたため、参考程度にとどめ、実際のデザインは渡辺明が行った[166]。渡辺、利光貞三による粘土原型が完成したのは6月末のことだった[23]

当初、円谷英二はゴジラの撮影方法について欧米に倣い、人形アニメの技法を検討したが、11月3日の封切り上映日から逆算して工程上無理と判断し、演技者が中に入る形でのぬいぐるみ方式を採った[出典 66][注釈 48]。メインの演技者を務めた中島春雄は円谷に、「人形アニメでやれば7年かかるが、お前が演ってくれれば3月でできる」と口説かれたという。それまでの映画の怪獣というと人形アニメでの表現しかなく、カメラマンの有川貞昌も中島も「ぬいぐるみでやるぞ」と円谷に言われても全くイメージが湧かなかったという。『ゴジラ』は本格的な「ぬいぐるみ怪獣」としても日本初の取り組みだった。
制作五ヶ所湾

本編では黒澤組から志村喬を準主演に、成瀬組から撮影の玉井正夫[注釈 49]美術の中古智、照明の石井長四郎を迎え入れるなどベテランを起用[23]。予算面での規模が大きかったため、当時製作部長だった北猛夫を特別に「美術監督」に据えている。 特撮を担当した円谷英二は本作品のために飯塚定雄井上泰幸開米栄三入江義夫など各方面から若いスタッフを集め、彼らは後に日本特撮界に欠かせない重鎮となった。

これらのスタッフについては本多組の本編A班、円谷組の特技B班、向山組の合成C班の3班体制がとられた[168][23]。後の特殊技術課では合成も特撮の参加となったが、本作品の時点では合成班は本編班と直接やりとりする独立した部門となっており、円谷が合成班に直接指示することはできなかった[168]

ラストシーンの海中撮影のため「日本で最も海の水の透明度の高い処」の調査がなされた結果、伊勢志摩五ヶ所湾がロケ場所に選ばれ、同時に「大戸島」のロケ地にも決定。8月2日には鳥羽ロケの先発ロケハン隊が出発。円谷組の特撮B班がゴジラの造形などに手間取り準備が遅れたため、本多組の本編A班が特撮B班に先んじて8月7日に撮入[148][注釈 50]。「大戸島」に設定した伊勢志摩の三重県鳥羽市石鏡町(いじかちょう)(後述の「エピソード」を参照)ほかで1週間にわたるロケを行い、51日後の9月下旬にクランクアップした[146][23]

円谷組の特技B班の撮入は少し遅れて8月下旬からとなり[注釈 51]、10月下旬まで都合3か月かけての撮影となった[146][23]。円谷は若いスタッフを率い、徹夜作業を重ね凝りに凝って撮影に当たった。「朝9時にセットに入り、準備を経て17時ごろから撮入、朝の4 - 5時に撮影を終える」という連日の強行スケジュールで、スタッフからは「ゴジラは5時らにならないと終わらない」と言われた。ミニチュアの設営に時間がかかるため、大道具係から照明係に至るまで総動員してもこのような進行にならざるを得なかったのである。公開時の「東宝スタジオ・メール」に円谷は「だんだん調子が出てきてこれならと思っているうちにクランク・アップした。特殊撮影では、最高を誇るアメリカ映画界に負けない自負を持っている。自慢したいようなしたくないような妙な気持ちです」とコメントしている。一方で、有川貞昌によれば円谷は技術的な面には自身を持ちつつも、撮影中には観客が入るかどうか不安視していたという[169]

10月25日に作品が完成。東宝撮影所では初号試写後に完成を祝い、興行成功を祈って本尊にゴジラの撮影用の2号ぬいぐるみをまつり、神主役に平田昭彦、巫女役には河内桃子が扮して撮影所中庭で神式の「ゴジラ祭り」(.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}修祓(しゅばつ)式)が挙行された[23]


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