ゴジラ_(1954年の映画)
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こうして本多は一貫して「真正面から戦争、核兵器の怖ろしさ、愚かさを訴える」というドキュメントタッチの演出姿勢を貫き、作品に単に時勢に乗って作られた怪獣映画に終わらせない普遍性を持たせており、第五福竜丸の被爆事件のみならず菅井きん演じる婦人代議士[注釈 71]や戦災遺族・孤児[注釈 72]疎開警察予備隊から再編成された保安隊の登場など、随所に当時の時代背景を象徴するファクトを織り込んでいる[152]。また、ゴジラが襲った東京の描写は、東京大空襲の再現ともいわれる[226]

一方で、映画評論家の樋口尚文は、ゴジラが東京を襲撃した際の演出について本多に訪ねたところ、自身は戦時中中国大陸にいたから本土での空襲の恐怖は経験していないとして、空襲を暗示させる演出であることを否定しており、戦後10年経っていないころなので戦争のムードがいろいろなところににじみ出ていたと語っていたことを証言している[227]。このことから、樋口は本多が反戦・反核を映画に織り込んでいたという論調に否定的な見解を示している[227]

当時は造船疑獄犬養健法務大臣指揮権発動などもあり、吉田茂内閣や政治への不信感が国民の間に高まっていた時代だった[注釈 73]。助監督として参加した梶田興治によると、そうした時代背景からかゴジラが国会議事堂を破壊したシーンでは観客が立ち上がって拍手をしたという[228][110]

「あのゴジラが最後の一匹とは思えない」という山根博士のセリフは原作にはなく村田武雄が追加したもので、村田は水爆実験を続けることに対する警鐘として意図していたが、本作品がヒットしたことにより興行側からゴジラを再登場させることを要望され、続編でもう一匹が登場することになったという[76]
宣伝

大作『ゴジラ』の公開に当たっては東宝の営業・宣伝部の斉藤忠夫、内田和也らによって現在でいうメディアミックス形式での派手な前宣伝が行われた。まず、長期宣伝の手始めとして、本作品の制作発表記者会見を、まだ撮影にも入っていない公開から4か月先立つ7月5日に間に合うスケジュールで行い、同日各新聞紙朝刊において「ゲテもの映画界をまかり通る原子怪物東京に上陸」という見出しで『ゴジラ』の題名とともに製作発表を行っている。なお、この際に使用された宣材写真は検討用の初期粘土原型を基に作ったコラージュである[23]

続いて、7月17日よりニッポン放送でラジオドラマを開始(下項参照)。公開間際には、雑誌、週刊誌、新聞、電車の車内吊り広告など、あらゆる宣伝媒体を用いて入念な宣伝攻勢がかけられた。また、公開前後には、ゴジラの人形を乗せた宣伝トラックが都内を周遊し、さらにこれをあおった。ゴジラの宣伝用ビニール人形も東宝で用意されたほか、ゴジラの原デザインを担当した阿部和助による漫画も発行され、劇場で配られた(下項参照)。少年雑誌とのタイアップ特集記事では、撮影に使用したゴジラのぬいぐるみの「水葬イベント」が行われた。

結果として『ゴジラ』は東宝の興行史に残る一大宣伝作となった。工藤明宣伝部部長(当時)は公開翌年に、1954年度の宣伝成功作として、『七人の侍』『生きる』『蝶々夫人』を挙げたうえで、この『ゴジラ』をこれらを上回る「空前の大ヒット作」と振り返っている。
作品公開と反響ポスター

こうして完成した本作品は封切りと同時に当時としても例を見ない観客動員数を記録して空前の大ヒットとなり、東宝の同年度の初日観客動員数の記録を塗り替えた。渋谷東宝に並ぶ観客の列は道玄坂まで伸び[141][33][注釈 74]、待ち時間は2時間に達した。封切り初日は都内だけで14万 - 15万人の動員があったという[141][33]。あまりの大入りに、田中友幸自ら渋谷東宝や日劇でチケットもぎを手伝うこととなった。1番館での封切り動員だけで観客動員数は961万人に上り[出典 6][注釈 4]、国民のほぼ10人に1人はこの映画を見たことになる。『ゴジラ』の成功は、当時傾いていた東宝の屋台骨を一気に立て直したとも言われている。

東宝の重役陣もこの大成功に喜び、撮影スタッフらが重役室に招かれ、各館の興行レコードが次々報告される中、藤本真澄ら本社重役がビールや洋酒をふるまうという異例の待遇でこれをねぎらった。東宝では封切り劇場内で多数の児童にアンケートがとられ、ゴジラに同情する意見が多く寄せられた。観客からも「なぜゴジラを殺したんだ?」「ゴジラがかわいそうだ」という抗議の声があがった。宝田明も「ゴジラにシンパシーを感じた」「なぜ人間が罪のない動物を殺さなければならないのか、無性に涙が出るのを禁じ得なかった」と述べ[229]、脚本担当の村田も「ゴジラがかわいそうですよ」と語る[76]などスタッフにも同情の意見は多い。

一方、公開時の日本のジャーナリズムの評価はおおむね低く、「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評されることも多かった[出典 78]。各新聞の論評でも特撮面では絶賛されているものの、「人間ドラマの部分が余計である」として本多の意図したものを汲んだ評価はなされなかった[230][注釈 75]。しかし、田中によれば当時、三島由紀夫だけが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」「文明批判の力を持った映画だ」としてドラマ部分まで含めて本作品を絶賛した[出典 79]。著名人としてはのちに小津安二郎[232]手塚治虫淀川長治水木しげるらが本作品を絶賛している。

作品は外国でも大評判となり、すでに特撮技術者として並ぶ者のなかった円谷英二の名が外国にまで広く知れ渡ることとなった。田中や本多は「まず欧州で認められ、米国で大ヒットしたことで日本国内の評価が定まったようだ」としている[141]

漫画『サザエさん』では、朝日新聞1954年11月9日掲載分にゴジラを登場させている[19]

1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故後、フランスでは本作品が再評価され、同国のテレビ局が黒澤映画『』(1990年)の撮影現場を取材した際に、同作品で演出補佐を務めていた本多に対してもインタビューを行っていた[233]
第三者による評価

特撮映画研究家の竹内博は、「演出・脚本・特撮のいずれをとっても最上の出来であり、これを超える怪獣映画は日本にないと言い切ってもよい」と述べている[235]。SF研究家の大伴昌司は、「不安やパニックの描写に優れ、本編と特撮とが融合している唯一の作品であって、核兵器反対というテーマを真正面から打ち出すなど映画史上にも残る傑作である。これ以降に出現したさまざまな怪獣映画は畢竟(ひっきょう)『ゴジラ』の蛇足に過ぎない」と評している[236]。また、竹内は大伴による評価について「この大伴の言葉が『ゴジラ』に対する最も的確な評価だと思える」と述べている[235]
エピソード

主要襲撃地点は小笠原諸島の大戸島(架空の島)、東京特別区。2度目の襲撃時のルートは、芝浦岸壁 - 札の辻 - 田町駅前 - 新橋 - 銀座尾張町 - 銀座4丁目(松坂屋) - 数寄屋橋 - 国会議事堂 - 平河町 - 上野 - 浅草 - 隅田川 - 勝鬨橋 - 東京湾[注釈 76][注釈 77]


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