ゴジラ_(1954年の映画)
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本作品では作曲家伊福部昭による劇中音楽も評価が高く[218][219]、特にメインタイトルテーマ[注釈 66]は後の「平成ゴジラシリーズ」にも受け継がれている[注釈 67]

伊福部は、田中が製作した『銀嶺の果て』(谷口千吉監督、1947年)が映画音楽デビューで[218]、掛下慶吉の推薦もあり、同じ田中に見込まれての依頼だった。担当が決まり、本作品の製作発表で会見を受けた後、伊福部に対して、「ゲテモノ映画の音楽なんかやってると、仕事がとれなくなるよ」と、大真面目で忠告してくる人もいたという。しかし、伊福部は「とんでもない、と大乗り気でやりました」と語っている。これには伊福部自身が水爆実験の結果誕生したゴジラという怪獣に対し、戦後の混乱期に放射線障害を負っていた自分自身が重なり、「どうも他人事とは思えなかった」という意識もあったということを明かしている。

また、伊福部は1949年(昭和24年)に、出張先の京都での月形龍之介との酒席が、円谷英二との初対面だったが、月形が知り合い同士と思って紹介しなかったため、互いに名も知らないまま、しばらくは会うたびにただ酒をおごらされる付き合いとなっていた。その5年後、本作品の制作発表の壇上で再会し、初めて互いの素性を知って驚いたという[220]

作曲にあたって伊福部は、前例のない怪獣映画であるため台本を読んだだけではゴジラが巨大な爬虫類であるということしかわからず、ラッシュフィルムでも円谷が特撮部分を抜いた状態であったため、ゴジラの姿が全くわからないまま創作せざるをえなかった[220]

伊福部は本作品について、「特撮映画は下手な音楽論が出てこないから大好きだ」「とくに爬虫類が活躍するなんていうと黙っちゃおれないという気がします」とし、「近くの幼稚園から聞こえてくる音楽が虚脱した旋律ばかりで、こんな教育してたら子供はダメになると考えていたところ、ちょうど子供が『ゴジラ』なんかをみる年頃だったので、それじゃあひとつと、かなり真面目にやりました」と述べていて、つねづね「子供に聴かせる音楽に嘘はいけない」としていた伊福部は、この『ゴジラ』では「大きいものが出てくる場合は大きい音で」という正攻法の作曲を心がけたという[出典 75]

こうしたわけで、ゴジラの主音は「大きな音」が出るコントラファゴットコントラバスチューバが使われた[出典 76]。コントラファゴットは当時、東京芸大に一つしかなく[注釈 68]、前日に借りるなどして楽器集めには苦労したという[218]。また、重低音の楽器が主旋律となるため、「連日の吹奏で演奏者は脳震盪を起こしそうになっていた」と語っている[218]。一方で、金管楽器は戦争を想起させるとして、弦楽器も中心とした構成となっている[221]

ゴジラが東京上陸した時のテーマは、『キングコング対ゴジラ』以降もゴジラ出現時のテーマとして定着していった[219]。一方で、大戸島でのゴジラ初登場シーンではあえて音楽をつけていない[219]。これは作曲時点でのラッシュフィルムにゴジラの姿がなかったため表現できなかったものだが、結果的にはゴジラそのものの恐ろしさを鮮明にするかたちとなった[219]

後年「フリゲートマーチ」と称されるしきね出港時のテーマは、後に『宇宙大戦争』や『怪獣大戦争』などでもアレンジして用いられており、伊福部マーチの人間側テーマを代表する1曲となっている[219]

オーケストラはNHK交響楽団による[218]。スクリーンに本編を映写しながらの演奏録音だったため、演奏者が演奏そっちのけで背後の画面に見入ってしまい、自らタクトを振った伊福部は「ひどい目にあいました」と語っている[218]。演奏自体は和気あいあいとした雰囲気で行われたが、演奏メンバーの中には、この作品の「ドシラ、ドシラ…」という音階の「ゴジラのテーマ」に、「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラが出てきたぞ」と歌詞をつけて歌う者がいたという[218]

伊福部の作曲は劇伴だけでなく、「オキシジェン・デストロイヤー」の実験時の効果音的旋律などにもおよんでいる。ゴジラの鳴き声は伊福部の発案で、緩めたコントラバスの弦を助監督や録音助手が松ヤニをつけた皮手袋で弾いた音をソニーのKPで録音し、10種くらい選んだ音を速めから遅めに再生速度を変化させ、6〜7種の声を最終的に使用している[出典 77]。当初は、鳥や巨獣などの声を加工することを試みていたが、爬虫類的な声にはならずこの手法に至ったという[220]。この「ゴジラの声」は、以後の作品でもさらに加工して連綿と使用されている。タイトルバックから鳴り響く「足音」は、エコーマシンの残響音とされる[223][注釈 69]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}録音技師の利根川孝太郎が自作していた音響増幅用の箱を、試しに叩いてみたところちょうどいい音がしたので、伊福部が採り入れ、劇伴録音の演奏場に持ち込んで、三縄一郎、下永尚とで使った。[要出典]なお、このタイトルバックにおける「鳴き声」と「足音」は効果音ではなく劇伴音楽(メインタイトル・M2)として伊福部は指定しており、譜面も現存している。

本多は、伊福部の音楽は効果音との組み合わせや楽器の選択がうまく、そのことが後も自身の作品で伊福部を起用する理由になったと述懐している[224]
反戦・反核『ゴジラ』撮影現場での本多猪四郎

田中友幸は、この企画のテーマを「水爆に対する恐怖」と述べている[141]。脚本を務めた村田は、ラストシーンの山根博士の台詞に「原水爆反対の悲願を込めた」と語っている。監督を務めた本多猪四郎は、クランクインに際して「この映画で私の狙う真実は、水爆下の恐怖に戦く現代人の心理的デフォルマシオンである。破壊の恐怖と絶望がフィクションの中から心に迫り、一つの反省を与えることができれば幸いに思う」と抱負を語った[225]。また、後に本作品について「私自身も思いもよらぬ影響を与えた作品であり、良いにつけ悪いにつけ『ゴジラ』は私の人生を大きく決定づけた」と述べている。尾形、山根博士、恵美子のゴジラに対する立場の違いや意見の対立は、当時の水爆に対する世論を要約したものとされる[163]

本多は戦後に中国の天津から復員して門司を経て汽車で東京へ帰る途中、原爆による被害で廃墟と化した広島の街を見て大きな衝撃を受けていた[224][159]。そのため、本多は制作するに当たり、田中や円谷と3人で「撮影に当たり我々自身、決して荒唐無稽の怪獣映画との照れの気持ちを持たないこと。原爆の驚怖に対する憎しみと驚きの目で造っていこう、現に目の前に原水爆実験で蘇生した、とてつもない怪獣が日本へ東京へ現れたらどうするか、その現実感の狙いを忘れないで撮影しようとかたく申し合わせた。」と著している[193]。また、本多は「いちばんの被害者はいつも民衆である。この映画の原イメージは、自らの戦争体験である[注釈 70]」としている[73]。本多は、本作品の制作に際して被爆地や病院の見学も行っている[193]

実際の演技指導に当たっても、その方針の通り円谷と入念に打ち合わせを行い、ゴジラを前にした演技者たちの目線の統一を徹底することで画面にリアリズムを持たせている。公開時には「生き物が火を吐くわけがない」として『ゴジラ』をゲテモノ扱いするマスメディアの評価もあったが、本多は「放射能が炎でないことはわかっている。しかし、目に見えない放射能を目に見える形で描かないと核の恐ろしさは伝わらない。つまり、あれは映画的な嘘である[要出典]」「実際には目に見えない放射能を可視光線として表現しても、観客は感覚的に納得していた[193]」と述べている。また、キングコングが生物として描かれているのに対し、核兵器の性質を持ったゴジラは生物であって生物でないとしている[73]

こうして本多は一貫して「真正面から戦争、核兵器の怖ろしさ、愚かさを訴える」というドキュメントタッチの演出姿勢を貫き、作品に単に時勢に乗って作られた怪獣映画に終わらせない普遍性を持たせており、第五福竜丸の被爆事件のみならず菅井きん演じる婦人代議士[注釈 71]や戦災遺族・孤児[注釈 72]疎開警察予備隊から再編成された保安隊の登場など、随所に当時の時代背景を象徴するファクトを織り込んでいる[152]


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