ゴジラ_(1954年の映画)
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この石鏡町でのロケでは、「ゴジラが出た!」と半鐘が鳴って大戸島の島民らが逃げ惑うシーンで約300人の地元住民(当時の町の人口の約4分の1[175])が日当600円でエキストラとして起用され、普段の漁師や海女の服装のまま撮影に参加している[出典 68][注釈 54]

真夏に行われた石鏡町でのロケは過酷なものだった[176][173]。町には平地がほとんどなく、海岸からいきなり山の斜面が続くリアス式海岸独特の起伏に富んだ地形であるため、ロケ隊は真夏の炎天下に重い撮影機材や荷物を持って急坂の多い未舗装の山道を登り降りすることを強いられ、疲労によって日射病にかかる者が続出する事態となった[173]。エキストラとして撮影に参加していた現地住民らはそれを見かねてロケ隊の荷物を持ったり撮影機材を運んだりして手助けしてくれたため、苦労していた俳優やスタッフは感激して住民らに深く感謝した[173]。こうした光景を目にした監督の本多猪四郎は、「こんなに親切な人々が暮らす集落をゴジラが襲って破壊することにしているんですからね」と嘆いている[173]

山根博士役を演じた志村喬も、ロケについて「石鏡の集落には旅館などの宿がないので、ぼくらは毎日、鳥羽から1時間半くらい海上保安庁の船に揺られて石鏡に通っているのですが、船酔いと日射病で毎日数名の女優さん方が倒れています。石鏡の港に船が着いたら、今度はそこから撮影場所の山頂まで急勾配の坂道を1時間くらい登っていかなくてはいけない。ようやく山頂にたどり着いたころにはみんなヘトヘトでね、とても撮影どころじゃないです。なるほど、こんな秘境ならゴジラが出てきても何もおかしくはないなと妙に納得しましたよ」と語っている[178]

石鏡ロケではゴジラが大戸島に上陸して姿を現し、それを目撃した島民と調査団一行が恐怖のあまり逃げ惑うというシーンの撮影がメインだったため、突如として巨大な怪物が目の前に出現したと想像したうえで演技してもらう必要があった[173]。そのため、エキストラとして参加した住民らにもゴジラとはいかなるものかについてスタッフが詳しく説明を行い「あそこの山の尾根の向こうから、ゴジラが顔をのぞかせるんです」と言っても、住民らはみんな「そんな馬鹿な」と笑うばかりで誰も話を信じてくれない[出典 69]。そこを何とか説得し、俳優やエキストラがひとしきり山道を駆け回って撮影を終えた[173]。それでもやはり、年に1 - 2回、町の小学校の校庭で開かれる巡回映画会でしか映画に接したことがない住民らはどうしても納得がいかず、「そのゴジラとやらはここにいないのに、どうして撮影することができるのか?」と助監督の梶田興治を質問攻めにしたため、彼が返答に窮して困り果てるという一幕もあった[173]

ゴジラを一度も見たことがなく、また実際には目の前にもいないためにそのイメージをよく掴みにくいことは、本作品に出演した俳優陣にとっても大きな問題だった[出典 70]。作品の本編を担当するA班と特撮を担当するB班はそれぞれ別々に撮影を進めていたため、宝田などA班に所属する俳優らは実物のゴジラを見たことがなく、彼らにとってもゴジラは謎の存在だった[182][181]。そして、謎の存在のまま撮影はどんどん進行していく。目の前にいないゴジラを相手にしてリアリティのある演技をするため、宝田はゴジラの絵コンテを見てイメージを膨らませ、「ゴジラは東京駅前の丸ビルと同じくらいの高さだ」と聞かされたことから、ゴジラの顔はこの辺りかと想像しながら視線の位置を定めるといった試行錯誤を積み重ねた[182][181]。宝田が初めて実物のゴジラと対面したとき、すでに撮影は後半に入っていたという[181][注釈 55]。初めてゴジラを見た宝田は「おっかない」と感じたといい、中島春雄が中に入っていると分かっていても気味が悪かったと述懐している[182]

大戸島の神社での神楽のシーンは、鳥羽賀多神社での神楽をそのまま撮影した[73]天狗の面や踊りの奉納などもすべて現地のもので、伊福部の作曲した神楽のみが架空のものである[73]。作品中でゴジラは大戸島に古くから言い伝わる伝説の巨大な海の怪物として描かれているが、石鏡町を含む志摩地方には「海には人を誘惑して海底へ引きずり込み人命を奪うトモカズキ[183]、人の尻から生肝を抜き取る尻コボシ[184]などの魔物が潜んでいる」という古くからの言い伝えがある[170][183]。そのため、石鏡町の海女たちは2019年現在もこうした海の魔物を退散させるための魔除けとしてドーマン・セーマンの入った磯着や手拭・道具を身につけ、または携えて海に潜っている[170][183]。このように石鏡町では昔ながらの古俗がよく残されており、住民らの魔除け信仰を示す「蘇民将来子孫家のお札」も町の随所に立てられている[170]

石鏡町での撮影には合成シーンが多いため、円谷英二も立ち会った[73]。ロケから60年が経過した2014年8月時点で、石鏡町でゴジラとのつながりを示すものは鳥羽磯部漁業協同組合石鏡支所[185]の事務所前に置かれているゴジラの顔出しパネルしかない[170]。また、本作品でゴジラが巨大な足跡を残していった大木の浜(おおぎのはま)も、ロケ当時の姿とほとんど変わることなく海女たちの仕事の場となっている[170]。一方、島民たちがゴジラから逃げ惑うシーンに用いられた一帯は同年12月時点で「ゴジラ坂」との通称で親しまれており、観光名所としても紹介されている[186]

大戸島の破壊された集落のシーンは世田谷区の東宝撮影所付近にあった美術倉庫[注釈 56]の丘のふもとにある「農場オープン」に組んだロケセットで撮影され、雨も放水によるものであった[73][23]。山根博士らの調査団を取り巻く村人は、50人余りの東宝の大部屋俳優らが演じている。

冒頭の栄光丸や東京湾の遊覧船での甲板もセットである[73]

都内での民衆が逃げるシーンは、品川の八ツ山橋などで撮影された[73]

ゴジラが劇中で銀座和光ビルの時計塔を壊すシーンがあるが、梶田興治によると、和光本社はこれに激怒し、以後2年間ほどは東宝の一切のロケ使用を許可しなかったそうである。梶田によると映画を観た後、本当に銀座和光ビルが壊されたかどうか、確かめに来る人たちがいたという[187]。また、ゴジラの白熱光で炎上する松坂屋の社長は、「縁起でもない」と怒り狂ったという[188][189][注釈 57]。一方、森永製菓とはタイアップを行っていたため[59]森永地球儀ネオンはゴジラの侵攻中も破壊されることなく点灯している[189]

大戸島の台風のシーンでは、本作品のために作られた、トラックのエンジンにセスナのプロペラをつけた特製の大型扇風機が使われている[190]


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