ゴジラ_(1954年の映画)
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しかし、1954年3月25日[注釈 32]、両社は突如として合作映画の製作を断念せざるを得ない状況へと追い込まれる[143][148]。それは、インドネシアとの国交が樹立しておらず、インドネシア政府の政治的判断が加わったことから、クランクイン直前で制作が不能となったためである[23]。3月25日にペルフィニはインドネシアの外務大臣からストーリーのアイデアに同意できないため合作映画の製作を承認することはできないとの通告を受領[143][146]。このインドネシア政府からの承認拒絶により、日尼合作映画の製作は土壇場で実現不能となった[143]。4月5日、東宝とペルフィニの両社は共同声明を発表し、日尼合作映画の製作の断念を正式に公表した[143]。両社は共同声明の中で、「確かに外務大臣の反対は映画のストーリーに対するものではあるが、その背景には日尼両国間の政府関係の悪化すなわち未解決の戦時賠償問題があることも事実である」としている[143]

田中は後年、合作映画の企画は非常にうまくいっていたが、まだ国交もないのに合作映画を作るとは何事だと向こうの大臣に反対されて追い返され大変辛い思いをしたと語っている[要出典]。田中は急遽インドネシアからの帰路で代替企画を立てざるを得なくなった[出典 50]。ちょうどそのころ、同年3月に行われたビキニ環礁での核実験第五福竜丸、第十三光栄丸の被爆事件が社会問題となっていた[出典 51]。これに着想を得た田中は、「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という特撮映画の企画を立てた[出典 52][注釈 33]。この時点での企画仮題は、『海底二万哩(マイル)から来た大怪獣』であった[出典 54][注釈 34]

田中がこの企画を東宝本社の企画会議に提出したところ、製作総指揮の森岩雄の目にとまることとなった[141][157][注釈 35]。森は戦前から東宝に関わり、円谷を招いた本人であるが、1952年(昭和27年)に公職追放解除を受け、本社に復帰してハリウッド視察を行い、特撮映画の重要性を再認して、戦後解体されていた「特殊技術課」を東宝内に再編成し、円谷を再度招いてこの部門の強化を進めていた。こうして、東宝上層部が無茶な内容だと思ったのか、「子供騙し」として映像化を不可能と判断するなか、森がこの企画に賛成意見を述べ、強硬に支持し、ついにはGOサインにこぎつけることとなった[出典 55]

なお、監督の谷口をはじめとする『栄光のかげに』へ参加を予定していたスタッフは、映画『潮騒』へスライドしており、田中もこちらと併行して企画を進行していった[146]
「G作品企画」

この前代未聞の企画に臨み、本企画は5月に「G作品」[注釈 36]と銘打たれ、極秘裏に進行されることとなった[出典 57][注釈 37]

大まかなストーリーや怪獣の設定が決まると、田中は次に、文芸部の松下忠と2人で、田中自身ファンであった怪奇幻想作家の香山滋の自宅を飛び込みで訪ね、原作執筆を依頼したところ快諾を得た[出典 58][注釈 38]。5月中旬のことだった[152][148][注釈 39]。こうして香山の筆によって、田中曰く「シナリオ風の原作」がリテイクを経て1週間ほどして完成し[141]、これを基に5月27日に「G作品検討用台本」が印刷された[146][23]。この初稿の時点で、5月23日 - 24日に正式に円谷英二が参画することとなった[141][23][注釈 40]

円谷は1952年(昭和27年)の春に「海から現れた化け物のようなクジラが東京を襲う[注釈 41]」、また、1953年(昭和28年)には「インド洋で大が日本の捕鯨船を襲う」という特撮映画のプロットを企画部に提出していた[出典 59][注釈 42]。この円谷の企画の着想は、1945年(昭和20年)の東京大空襲の最中、防空壕に避難していた時に思いついたものであり、家族に対しても、これで戦争の恐ろしさを書いてみたいと語っていた。このいきさつもあり、円谷は怪獣の設定を「大蛸」にすることを提案した[出典 60]。一方、田中は「(当時の)世情に合う」としてこれを「太古の恐竜」とすることを主張、結果として田中案が採用され、主役の怪物のキャラクターは「太古の恐竜」となった[出典 61][注釈 43]

田中は監督に、前年に2本の特撮作品『太平洋の鷲』と『さらばラバウル』で円谷と組んだ本多猪四郎を抜擢[出典 62][注釈 44]、また、同じく前年に円谷と日本初の立体映画飛び出した日曜日』を撮った村田武雄に脚本を依頼し、本多と村田の2人で脚本製作に入った[146][23][注釈 45]。田中友幸は、題名が『海底二万哩から来た大怪獣』では長いので、もっと良い題名はないものかと考えあぐねていたところ[注釈 46]、プロデューサーの佐藤一郎から、当時東宝演劇部にいた"「クジラ」が好物で「ゴリラ」のような容貌"をした網倉志朗(後の東宝演芸部部長)という人物のあだ名が「グジラ」だと聞きつけ、語呂の良いこのあだ名を参考にし、「ゴリラ」と「クジラ」を合わせて「ゴジラ」とした[出典 64][注釈 47]

村田と本多による「G作品 準備稿」が仕上がると、「ピクトリアル・スケッチ」(場面ごとに画にしたイメージ・ボード)が制作された[出典 65]。美術監督の渡辺が飯塚定雄ほか、4、5人の学生を指導して描き上げた、全228シーン、306カットに上るこの絵コンテは企画室に張り出され、森らスタッフを前に、村田が説明を行い、検討が重ねられた[76][23]。浅井正勝によると、ゴジラの吐く「白熱光」や「光る背びれ」は、こうした検討段階で「かっこつけ」で生まれたアイディアだったという[165]


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