初期のゴシック・ロックバンドの多くはイギリス出身だが、Christian Death
(ロサンゼルス)、Virgin Prunes(アイルランド)、Xmal Deutschland(ドイツ)、Pink Turns Blue(ドイツ)などイギリス出身以外のバンドも存在する。ゴシック・ロックは、パンク・ロックやポスト・パンク、ニューウェイヴから派生していった。ゴスという単語がシーンをあらわすのに使われ始めたのは、1983年になってからである。1970年代後半や1980年代のいくつかのゴシック・ロックバンドは、自分でレーベルを持ち、インディーズからCDを発表していった(例:ベガーズ・バンケット・レコード)。
1979年にゴシックと呼ばれたポスト・パンクのグループは、ジョイ・ディヴィジョン[14]とスージー・アンド・ザ・バンシーズだった。 スージー・アンド・ザ・バンシーズのデビュー・アルバム『香港庭園』から『ノクターン』までの作品や、イアン・カーティスの自殺によって短命に終わったジョイ・ディヴィジョンの『アンノウン・プレジャーズ』、『クローサー』はゴス・シーンに影響を与えた。
また、バウハウス(当初、バウハウス1919と呼ばれていた)やザ・キュアー、キリング・ジョーク、パブリック・イメージ・リミテッドもまたゴス・シーンに影響を与えた。2006年のバウハウスのコンサート
バウハウスは当初、無地のジーパンにTシャツといったファッションだったが、Gloria Mundi
と同じ番組に出演してからは、イメージチェンジを行い、最終的には黒ずくめにメーキャップといういでたちとなっていった。デヴィッド・ボウイやT・レックスといったイギリスのグラム・ロックに影響されたバウハウスのデビューシングル「Bela Lugosi's Dead」は、本格的なゴシック・ロックの幕開けと呼ぶにふさわしい作品となっている[15]。スージー・アンド・ザ・バンシーズやザ・キュアーなどのバンドは後に音楽スタイルを変化させていったがバウハウスは1983年の解散まで、ステージパフォーマンスや音楽スタイルにおいて、ゴシックを貫いた。ダムドのリードボーカルであるデイヴ・ヴァニアンは、ザ・キュアーやスージー・アンド・ザ・バンシーズ、バウハウスにファッション面で影響を与えた。
1970年代後半に結成されたUK Decay[注 1]は、1980年代に入って頭角を現しつつあるゴス・シーンに影響を与えた。また1980年から1981年にかけて、The Danse SocietyやTheatre of Hate[注 2]、The March Violets、Play Dead、シスターズ・オブ・マーシー、Gene Loves Jezebelが結成。1982年までに、Sex Gang Children、Southern Death Cult(後のザ・カルト)、Skeletal FamilyやSpecimen、そしてAlien Sex Fiendの出現によって、ゴシック・ロックはより幅広いサブカルチャーになった。1983年にリリースされたSex Gang Childrenのファーストアルバム『Song and Legend』は、ポジティヴ・パンク[注 3]と呼ばれイギリスのインディー・チャートで1位を獲得した[16]。
ロンドンにあるSpecimenが主催する「Batcave」は、イベントなどの開催場所を与えることでゴス・シーンに貢献した。ゴシック・ロックバンドのメンバーやその取り巻き、及びファンは「Batcave」に集まり、ゴス・クラブのプロトタイプをつくっていった。1983年までイギリスの雑誌は「Batcave」や他の類似する会場をとりあげ、ゴシック・ロックシーンを紹介した。 バウハウスやクリスチャン・デスが自分たちの国でバンドを結成させていたその頃、Geisterfahrer
ドイツ・オーストラリア
オーストラリアでは、ニック・ケイヴのザ・バースデイ・パーティ(1979年になって活動拠点をロンドンに移転)がゴス・シーンに影響を与えた。 日本では現地のパンクシーンを体験しようと渡英し、バウハウス等のゴシックロック勢に衝撃を受けた元MARIA023のジュネが結成したオート・モッドがいわゆる日本のゴシック・ロックの始祖となった。オート・モッドは布袋寅泰等のメンバーを擁しながら1985年まで活動をした。また、彼らのシリーズギグ「時の葬列」においてはG-SCHMITT 第2世代のゴスの波の中で、そのゴスという単語とスタイルが『The Face』や『NME』といったイギリスの主要紙に注目されるようになっていった。また、ゴシック・ロックによってゴス・サブカルチャーも広まっていった。1980年代を通して、ヨーロッパのゴス文化とデスロック・ムーブメントと、ニューロマンティックとの融合がしばしばあった。 1980年代のオルタナティブ・ロックの幕開けは、ゴシック・ロックの幕開けをも意味し、将来を期待されていたミュージシャンにシスターズ・オブ・マーシー、Fields of the Nephilim
日本
第2世代
シスターズ・オブ・マーシーのデビュー・アルバム『マーシーの合言葉 (First and Last and Always)』はイギリスの音楽チャートトップ10に入りを果たした。
Clan of Xymox、デッド・カン・ダンス、コクトー・ツインズといった4ADレコードのミュージシャンの楽曲は、イギリスの大学やラジオ局でオンエアされた。
デペッシュ・モードが体現した、ゴスとポップとインダストリアルの融合とシンセサイザーを使用した楽曲は、Camouflage、Secession、Celebrate the NunやRed Flagといったシンセポップのミュージシャンに影響を与え、ついにゴシック・ミュージックはクラブ・ミュージックとつながりを持ち、シンセポップ感がゴシック・ロックの中に現れ出した。
第3世代2012年にポーランド・ボルクフ(英語版)で開かれたゴシックイベント「Castle Party」における火吹きパフォーマンス
1990年代に入っても、イギリスからはChildren on Stun、All Living Fear、VendemmianやRosetta Stoneといった新人バンドが現れ、 The Cruxshadows、The Last Dance、Sunshine BlindやThe Shroudも活動を開始した。
ドイツでは、Apocalyptic Vision、Apollyon Rekordings、Deathwish Office、Dion Fortune、Glasnost Records、Hyperium Records、Sounds Of DelightやTalitha Recordsといったレコード会社が、Love Like Blood、Mephisto Walz、The Merry ThoughtsやTwo Witchesといったバンドの楽曲を収録したゴシック・ロックのコンピレーションアルバムをリリースした。
1990年代半ばから後半にかけて、大手レコード会社(特にアメリカやドイツ)では、‘ゴシック・バンド’や‘インダストリアル・バンド’として、マリリン・マンソン、エヴァネッセンスやウィズイン・テンプテーションといった実際はゴシック・ロックのミュージシャンとして活動していないハードロックやヘヴィメタルの人気バンドを扱いだした。またアメリカのマスコミはゴス文化とコロンバイン高校銃乱射事件に関連性があると指摘し中傷した。
2000年に入ってから、一部のゴス・ロックファンが1980年代の第1世代のファッションや音楽をとりあげ、リバイバル・ムーブメントに参加するようになる。Cinema Strange、QuidamやBlack IceといったDeathrock.comというウェブサイトに関係するバンドは第1世代のゴシック・ロックのスタイルへの回帰に貢献し、ニーナ・ハーゲンは2005年にニューヨーク市で行われたDrop Dead Festivalで大々的に活躍した。
チェリー・レッド・レコードがヨーロッパで初期のゴス・ロックのCDを再発している一方、Dancing FerretやProjekt Records、Metropolis Recordsはアメリカの市場でゴス・ロックの楽曲を発表し、新たなゴシック・ミュージックがStrobelight Recordsといったヨーロッパのレコード会社からリリースされている。