1826年のトーマス・ギボンズの死後、1829年までギボンズの息子ウィリアムと共に働いていた。これまで自身の事業は片手間であったが、この頃から本格的に稼動するようになった。ニューヨークと他の地域への間の路線拡大を行なっていった。まずはニュージャージーへのギボンズのフェリーを引き継ぎ、ロングアイランド湾西へ移行した。1831年、兄弟のジェイコブよりハドソン川下流、ニューヨーク州ピークスキル
への路線を引き継いだ。当時、引き抜きを直訴していた蒸気船操縦士ダニエル・ドリューと敵対していた。しかしここで強く印象に残り、この後30年間秘密裏にパートナーとなり、お互い競合しないように働きかけた[1]:72, 84?87。1833年11月8日、ニュージャージー州ハイズタウンのカムデン・アンド・アンボイ鉄道の事故であやうく命を落とす所であった。元大統領ジョン・クィンシー・アダムズも同じ鉄道に乗っていた[1]:90?91。
1834年、ハドソン川におけるニューヨークとオールバニの間の蒸気船独占反対に勝訴。人々の支持を得るため、当時の大統領で民主党のアンドリュー・ジャクソンの大衆向けの言葉を借りて『人々の路線』と呼んだ。同年後期、独占企業は競合をやめるように彼に多額の金額を支払ったため、彼はロングアイランド湾への航行に切り替えた[1]:99?104。
1830年代、産業革命によりニューイングランドに多数の繊維工場ができた。アメリカの最初期の鉄道としてニューヨークへの蒸気船と接続するためボストンからロングアイランド湾まで建設された。1830年代後期、ヴァンダービルトは湾内で蒸気船業を支配しており、鉄道への接続の管理も奪い始めていた。1840年代、ニューヨーク・プロヴィデンス・アンド・ボストン鉄道をストニントンより人気路線にしようと画策。競合路線の運賃値下げによりストニントンの株価は下がり、1847年、ストニントンを買収し、彼が所有した多くの鉄道会社の第1社目となった[1]:119?146。
この頃、ヴァンダービルトは他の多くのビジネスも稼動していた。マンハッタン及びスタテンアイランドの膨大な土地を購入し、1838年、スタテン島フェリーを買収。1830年代、アメリカ海軍の最高ランク『代将(Commodore )』と呼ばれるようになる。『代将』はその後蒸気船企業家を表す一般的な言葉となり、1840年代後期、ヴァンダービルトは次第に孤独になっていった[1]:124?127。 1861年に南北戦争が始まると、北軍海軍に自身の持つ最も大きな蒸気船ヴァンダービルト号の寄付を計画。海軍長官のギデオン・ウェルズはこの戦争が短期間で終わると見込んで操業やメンテナンスに莫大な金額がかかることを考慮しこれを断る。しかし船舶仲買人の言い値で陸軍省に貸し出すことにした。海軍装甲艦バージニア号(メリマック号として北部に知られる)は精巧に作られていたがバージニア州ハンプトン・ローズで北軍の封鎖艦隊と共に大損害を受け、陸軍長官のエドウィン・スタントンと大統領のエイブラハム・リンカーンはヴァンダービルトに援助を要請。この時ようやく海軍にラムと厳選した人員と共にヴァンダービルト号を寄付することができた。ヴァージニア号を、侵略してくる連合国海軍のラファエル・セムス
南北戦争