コーサ・ノストラ
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マフィアであるヴィト・カッショ・フェロは、1901年にアメリカへ渡り、ニューヨークイタリア系アメリカ人の犯罪組織であるマーノ・ネーラ(Black Hand)と手を結び、犯罪の手ほどきをした。彼らはアメリカマフィアの前身となり、シチリア=アメリカ間のマフィア・ネットワークを強化した。

1909年、フェロは、イタリア系の組織犯罪についての調査を行うためにシチリアを訪れたアメリカの警察官ジョゼッペ・ペトロジーノを暗殺している。フェロ密貿易と保護料取立てで財を成し、20世紀初期の大物マフィアとしてその権勢を誇った。

第一次世界大戦勃発時には、軍用火薬の原料となる硫黄の産出地でもあったシチリアに戦争景気が訪れ、硫黄鉱山を保有していたカロジェロ・ヴィッツィーニは大いに私腹を肥やした。
ファシスト政権時代

政治家や有力者を取り込み、邪魔者は徹底的に排除し、沈黙の掟で守られた彼らも、壊滅状況に追い込まれた時代が到来した。1922年から始まったベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権時代がそれである。

1924年5月、ムッソリーニがシチリアを訪問した際「ここは、すべてが悪党どもの集団で、動くたびにマフィアの悪臭がする」と秘書に述べていたとも伝えられている。さらにシチリア中央部にあるピアーナ・デイ・グレージという町を訪問した。この町の町長でありマフィアのボスでもあったフランチェスコ・"ドン・チッチョ"・クッチャは、ムッソリーニに対し「警察に護衛してもらう必要などない。私がいれば何も問題ない」と護衛を減らすよう求めた。だが、ムッソリーニは、町長の求めを無視した。町長はムッソリーニの態度に激怒し、町の住人に対しムッソリーニの演説を見に行くなと命じた。その結果、ムッソリーニの演説集会には誰も集まらなかった。

ムッソリーニは町長がマフィアであったことを知るや、マフィア撲滅のため、1925年チェーザレ・モーリをシチリアに派遣した。モーリのマフィア狩りは苛烈を極め、ヴィト・カッショ・フェロを含む多数のマフィア構成員を刑務所に送り込み、マフィアを壊滅状態に陥れた。1929年9月にモーリは、その追及の手をファシスト政権の要人にまで伸ばすようになったため、罷免された。だが、マフィアたちはその後しばらく息を潜めることになった。

第二次世界大戦中の1943年、シチリアに連合軍が上陸すると、連合軍は刑務所にいた彼らを解放してしまった。さらに連合軍はカロジェロ・ヴィッツィーニヴィッラルバ村の村長に任命し、ヴィト・ジェノヴェーゼアメリカ海軍司令部付の通訳に任命するなどして、多くのマフィア構成員を町長や村長等の政府関係者に任命した。ファシスト政権崩壊後、マフィアたちは政治的にはキリスト教民主党との関係を深めていった。
第二次世界大戦後

第二次世界大戦後もほとんどのマフィア・ファミリーは農村地帯に本拠を置いていたが、1950年に大土地所有制度が廃止されたのと、イタリアに「奇跡の経済復興」と呼ばれる復興景気が訪れたのを機会に、マフィアたちは都市部へと本格的に進出し始めた。そして彼らは建築ブームに乗じて政治家たちと手を組み、公共事業入札を支配し、建築業者から現金を脅し取るなどして大きな利益を上げるようになった。

この好景気において大きく勢力を伸ばしたのが、サルヴァトーレとアンジェロのバルベーラ兄弟と、グレコ・ファミリーとコルレオーネのボス、ルチアーノ・リッジョであった。彼らは共にタバコ麻薬密輸・公共事業への介入で勢力を拡大していった。
両国の合同会議

1957年10月10日(あるいは12日)、アメリカ・マフィアの大ボス、ラッキー・ルチアーノの提唱により、パレルモにある高級ホテル「グランド・ホテル・デ・パルメ」において、アメリカのマフィアとシチリアのマフィアの大ボスたちが集まり、初めてのマフィア合同会議が開かれた。

議題は、シチリアでの最高幹部会(コミッションまたはクーポラと呼ぶ)の創設と、麻薬に関する双方の取り決めであった。4日間続いた会議の結果、最高幹部会の結成とアメリカへの麻薬密輸等はシチリア側が取り仕切り、アメリカ側はその利益の一部を受け取るということに決まった。この後、シチリアマフィアはアメリカへの麻薬密輸に本格的に乗り出していくこととなった。

マルセイユ経由のフレンチ・コネクション(英語版)に対抗し、シチリアからアメリカ、ヨーロッパへのルートを確立させることだった。そのため、ヘロイン工場がシチリアで多く作られた。オリーブ・オイルの缶に詰められ、年間3?4トンにも上る量がアメリカへ送られたという。
第一次マフィア戦争

1962年12月、麻薬取引のもつれから、ラ・バルベーラ兄弟らとグレコ・ファミリーとリッジョらの抗争が始まった。抗争は約半年間続き、結果的にはグレコ側の勝利となった。

だが、1963年6月30日、グレコの自宅近くにある不審な車を調査していた7名の憲兵隊員が、車に仕掛けられていた爆弾により死亡した。彼らは車に仕掛けられている爆弾にもうひとつ仕掛けが施されているのに気づいていなかった。この事件を重く見た議会は「反マフィア委員会」を設立し、多くのマフィア構成員らを逮捕した。

しかし、主立ったマフィアのボスたちは次々と逃亡し、行方をくらませた。そして、逃亡したボスたちは海外または国内の潜伏地から組織を操作し、1960年代から1970年代にかけて、南米からトルコに至る世界的な麻薬ネットワークを確立し、組織を肥大させていった。
第二次マフィア戦争

1970年代になると、マフィア内部に不穏な空気が流れるようになった。

ルチアーノ・リッジョ率いるコルレオーネシ(Corleonesi)がシチリアマフィアの頂点に立つという野望を抱いて、その勢力を拡大し始めた。ボスのリッジョは1974年に逮捕されたが、彼は獄中から、配下のサルヴァトーレ・リイナに指令を出し、まず、1978年に、コミッションの議長だったガエターノ・パダラメンティを追放し、後釜にミケーレ・グレコを据えた。


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