コンラート・アデナウアー
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その結果、アデナウアーは奨学金を得ることができ、わずか2週間で銀行を退職し、大学へ進学する[18][14][15][19]

1894年春、アデナウアーは、フライブルク大学法学部に入学し、その後ミュンヘン大学を経て、ボン大学で学んだ[18][3][14][15][17][20][19][21]。大学時代のアデナウアーは、カトリック系の学生団体に入会していたものの、奨学金で進学していたことや生家が貧しかったこともあり、質素倹約に務め、飲酒喫煙もせず、交友関係も少なかった[15][17][20][19]

アデナウアーは、大学在学時の1897年5月22日に第一国家試験を突破し、司法官試補見習(無報酬の見習い弁護士)になる[14]1901年10月19日には第二次国家試験に合格し、司法官試補になったものの、この時の成績は芳しくなかった[22][3]。当時の法曹界は、国家試験の成績が良い者から弁護士になっていくシステムだったため、アデナウアーはこの時は弁護士にはなることができず、不本意ながら、ケルンの検察庁に奉職する[22][23][21]。しかし、アデナウアーにとっては検察庁の仕事は面白くなかったようで、まもなく仕事に飽きてしまい、2年間の奉職後に退職する[24][21]
ケルン市助役と市長就任ケルン市長時代(左から3人目)

検察庁を退職したアデナウアーは、ケルン市内のカウゼン弁護士事務所に就職する[18][3][24][23][21][3]。同弁護士事務所所長のカウゼンは、ケルン市内では民事弁護士として有名で、同市のカトリック中央党議員団長も務めていた[24][3][23][21]1906年、ケルン市の助役に欠員が出たため、アデナウアーは、カウゼンに頼み込み、助役に推薦してもらい、同年3月7日、アデナウアーは投票によって37票中35票の賛成票を得て、序列10番目の助役に選任され、税務を担当することになる[25][26][27][28]。父・コンラートは、アデナウアーが助役に選任された3日後に死去している[29][28]

アデナウアーはテニスクラブで出会ったケルンの名家の娘、エマと1904年1月に結婚する。エマの父方の祖父は建築家で美術館も経営しており、600点以上の名画を所有していた[18][3][24][29][30]。エマとの間には、3人の子供に恵まれるが(1906年長男、1910年次男、1912年長女)、長男出産時、難産であったため、エマは脊髄が湾曲し、腎不全になってしまい健康状態がすぐれず、1916年10月に死去する[31][29][32][33]

1907年アデナウアーの妻・エマの叔父マックス・ヴァルラフ(英語版)が市長に就任し、アデナウアーは、1909年7月22日ケルン市の副市長並びに首席助役に就任する[34]。ヴァルラフは公務でベルリン市へ出張することが多く、アデナウアーが事実上のケルン市市長を務めていた[29]

1914年第一次世界大戦が勃発する。


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