コンラート・アデナウアー
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そのせいで、居住スペースは狭く、アデナウアーは17歳までベッド一つで兄と就寝していた[10][11][6][13][12]
大学進学と法曹の世界へ

1885年春、アデナウアーはケルンのギムナジウムに入学する[14][15]。ギムナジウムはカトリック系でラテン語ギリシャ語教育に重点を置いていた[14]。ギムナジウムでは、首席というわけではなかったが、常に6番以内の成績を維持していた[16]。アデナウアーは1894年春に、ギムナジウムを卒業し、大学進学を志望するも、アデナウアーの兄二人がすでに大学進学しており、アデナウアーを進学させる経済的余裕はアデナウアーの生家にはなかった[15][17][18][14][19]。アデナウアーは、一旦ケルン市内の銀行に就職するも、後にこの銀行員生活を振り返って「いやな職業につくということがどんなものか、身に染みてわかった。」と述べている[15]。また、この当時、銀行員で出世するためには大卒程度の学歴が必要であったため、アデナウアーは失意に暮れる[19]。銀行員の仕事に嫌気がさしているのを見かねた父・コンラートは、アデナウアーを大学へ進学させるために、奨学金の申請をした[15][17][19]。その結果、アデナウアーは奨学金を得ることができ、わずか2週間で銀行を退職し、大学へ進学する[18][14][15][19]

1894年春、アデナウアーは、フライブルク大学法学部に入学し、その後ミュンヘン大学を経て、ボン大学で学んだ[18][3][14][15][17][20][19][21]。大学時代のアデナウアーは、カトリック系の学生団体に入会していたものの、奨学金で進学していたことや生家が貧しかったこともあり、質素倹約に務め、飲酒喫煙もせず、交友関係も少なかった[15][17][20][19]

アデナウアーは、大学在学時の1897年5月22日に第一国家試験を突破し、司法官試補見習(無報酬の見習い弁護士)になる[14]1901年10月19日には第二次国家試験に合格し、司法官試補になったものの、この時の成績は芳しくなかった[22][3]。当時の法曹界は、国家試験の成績が良い者から弁護士になっていくシステムだったため、アデナウアーはこの時は弁護士にはなることができず、不本意ながら、ケルンの検察庁に奉職する[22][23][21]。しかし、アデナウアーにとっては検察庁の仕事は面白くなかったようで、まもなく仕事に飽きてしまい、2年間の奉職後に退職する[24][21]
ケルン市助役と市長就任ケルン市長時代(左から3人目)

検察庁を退職したアデナウアーは、ケルン市内のカウゼン弁護士事務所に就職する[18][3][24][23][21][3]。同弁護士事務所所長のカウゼンは、ケルン市内では民事弁護士として有名で、同市のカトリック中央党議員団長も務めていた[24][3][23][21]


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