コンラート・アデナウアー
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1876年1月5日、ケルンにて5人兄妹の三男(三子)として出生[2][3][4][5][6][7][8]。アデナウアーの父方の祖父はパン屋であった[2][4][6][9]。アデナウアーの父親の名前はヨハン・コンラート・アデナウアーであり、父・コンラートは小学校卒業後、公務員になるべくプロイセン陸軍に入隊[2][3][4][5][6][9]。そして、普墺戦争に従軍し、ケーニッヒグレーツの戦いで重傷を負ったものの、この時の活躍が認められ、勲章を授与されたことがある[2][3][4][6][9]。結局父・コンラートは小学校卒業という最終学歴にハンディがありながら、プロイセン陸軍で中尉まで昇進した[2][5][6][9]。そして、父・コンラートは軍を退役後、裁判所の書記に転じて、ケルン市の銀行員の娘・ヘレーナと結婚し、二人の間には4人の子供が生まれ、アデナウアーは三男(三子)として出生する[5][9]。父・コンラートは、敬虔なカトリック教徒で、アデナウアーも父親の影響を受けてカトリックを信仰していた[3][5][2]。アデナウアーの生家は安定した生活ではあったものの、父・コンラートは下級役人であったため家計は苦しかった[2][3][6]。アデナウアーの生家は3階建ての借家であったが、3階部分と2階の半分を転貸していたくらいであった[10][11][6][12]。そのせいで、居住スペースは狭く、アデナウアーは17歳までベッド一つで兄と就寝していた[10][11][6][13][12]
大学進学と法曹の世界へ

1885年春、アデナウアーはケルンのギムナジウムに入学する[14][15]。ギムナジウムはカトリック系でラテン語ギリシャ語教育に重点を置いていた[14]。ギムナジウムでは、首席というわけではなかったが、常に6番以内の成績を維持していた[16]。アデナウアーは1894年春に、ギムナジウムを卒業し、大学進学を志望するも、アデナウアーの兄二人がすでに大学進学しており、アデナウアーを進学させる経済的余裕はアデナウアーの生家にはなかった[15][17][18][14][19]。アデナウアーは、一旦ケルン市内の銀行に就職するも、後にこの銀行員生活を振り返って「いやな職業につくということがどんなものか、身に染みてわかった。」と述べている[15]。また、この当時、銀行員で出世するためには大卒程度の学歴が必要であったため、アデナウアーは失意に暮れる[19]。銀行員の仕事に嫌気がさしているのを見かねた父・コンラートは、アデナウアーを大学へ進学させるために、奨学金の申請をした[15][17][19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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