コンモドゥス
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したがって、それまで養子による継承を基本としていた「賢帝の時代」の一人とはいえ(また自らもその恩恵に与ったとはいえ)、彼はコンモドゥスを継承者にする確固たる決意を固めていた。176年、成人の儀式から1年後にアウレリウスは、息子に皇帝称号の一つであるインペラトル(軍指揮官)を付与することを宣言し、帝位継承の意思が内外に明確に示された。

そして続く177年にアウグストゥス(尊厳者)の称号も与え、これでコンモドゥスは「カエサル」「インペラトル」「アウグストゥス」という三大称号を得て、父とほぼ同等の政治的地位を与えられた。即ち、父から共同皇帝としての指名を受けたのである。若い共同皇帝に対して父アウレリウスは凱旋式の挙行という名誉をまず与え、その上で護民官を兼務させて「身体の不可侵」という最も神聖な特権を享受させた。

177年1月、コンモドゥスは護民官に続いて執政官にも就任した。わずか15歳での執政官就任はローマ史上でも最年少であり、父親としての溺愛に近い扱いであった。178年に最初の仕事としてドナウ川を再訪することになったコンモドゥスは、その直前に父が目をかけていた名門貴族の子女ブルッティア・クリスピナと結婚した。順調に思えた帝位継承であったが、ドナウ川で前線の視察を父と行っていた最中、体調を崩したアウレリウスは病床の人となった。

闘病の末、180年に父アウレリウスはそのまま帰らぬ人となり、一人残された18歳のコンモドゥスは第17代ローマ皇帝として即位することになる。
治世
対外政策詳細は「マルコマンニ戦争」、「ペスケンニウス・ニゲル」、「クロディウス・アルビヌス」、および「ウルピウス・マルケルス」を参照ヴェルサイユ宮の「大理石の中庭」に安置されるコンモドゥス像。
父アウレリウスの胸像と似通った風貌が確認できる。180年-182年にかけての攻勢図

父の死後、しばらくコンモドゥスはドナウ川軍団の総司令官として前線に留まりつつ、際限のない蛮族との戦いを終わらせるための講和を模索した。半年近い交渉の末、蛮族とドナウ川沿いでの領土線を確定して戦争を終結させる。講和の内容は捕虜となっていた軍団兵の返還と年貢の支払い(これは途中で免除された)、及びマルコマンニ族と同盟を結んでいたクアディ族が合計1万3000名の同盟兵を提供することだった[2]。また両部族はローマ帝国軍の監督下に置かれ、周辺部族との戦争も必ず皇帝の裁可を求めるものとした[2]

同じくローマ軍に対する攻撃を狙っていたブリ族からは相手から講和が求められたが、コンモドゥス帝は攻撃準備を整えるための物であると見抜いて拒絶した。彼は幾つかの戦いでブリ族を攻撃し、人質を取ることを条件にした休戦を認めさせてブリ族を屈服させた[2]。その後も周辺部族にローマへの帰順と捕虜返還を条件にした講和案を結んで戦線の安定化を図った[2]。マルコマンニ族が疲弊していたことから、同時代では「瀕死の相手を助けた」「中立地域の農地を捨てた」と講和は感情的に評価されていた[2]。実際にはドナウ川流域の軍事的平和に繋がり、テオドール・モムゼンは膨大化していた軍事費の抑制に成功したと評している。ドナウ川の情勢安定をもってローマ本国に帰還、180年10月22日に凱旋式を挙行した[3]

182年、元老院はコンモドゥスに既に与えられている「ゲルマニクス」(Germanicus)の称号に加えて「ゲルマニクス・マクシムス」(Germanicus Maximus)の称号を与えた。183年、アウフィディウス・ウィクトリヌスを共同執政官に指名したコンモドゥスは属州ダキアで蛮族の反乱に対する遠征軍を派遣した。この戦争がいかなる内容と推移を持ったのかは今日記録が残っていないために不明であるが、五皇帝の年に関わるクロディウス・アルビヌスペスケンニウス・ニゲルが戦功を挙げたことは分かっている。

翌年、今度は属州ブリタンニアハドリアヌスの長城を巡る蛮族との戦いが起き、立て続けに国境部隊が敗れ去る事件が起きた。コンモドゥスは新司令官としてウルピウス・マルケルスを派遣した。マルケルスは自らの業績を誇示するべく、厳しい軍規をもって無慈悲に蛮族を打ち倒した[2] が、厳しすぎる軍規に嫌気が指した兵士たちが軍団幕僚(レガトゥス)を指導者にして暴動を起こしてしまい、最終的にマルケルスがガリアに追放される事態に発展した。だが反乱は幕僚たちがコンモドゥスに忠誠を誓っていた為、皇帝の命令に従って武装解除された。184年、元老院から「ブリタンニクス」(Britannicus)の称号を与えられた。

コンモドゥスは兵士の罪を許す一方で属州ブリタンニアの全ての軍団幕僚を左遷したが、これは近衛隊長セクストゥス・ペレンニスによる讒言と伝えられる。軍は幼い頃から前線を共にした皇帝に敬意を抱いていたが、ペレンニスには激しい憎悪を募らせた。カッシウス・ディオによれば処罰がペレンニスの命によるものと知ったブリタンニア駐屯軍は1500名の有志でローマを訪れ、皇帝に窮状を直訴したという。コンモドゥスは任地を離れて直訴しに訪れた兵士達を叱責したが、訴えを受けてペレンニス処刑を命じ[2]、マルケルスも皇帝への反逆罪という名目で投獄された。

一方、ヘロディアヌスはペレンニスの内通者によって彼が反乱を計画していると知ったコンモドゥス自身の判断によって、ペレンニスが処刑されたと書き残している[4]。ローマの出来事を伝え聞いていなかったペレンニスの息子もコンモドゥスにより呼び出され、その途中で暗殺されたとされる[4]。コンモドゥスは権力の分散による帝位簒奪の阻止を考え、総督や高官職の兼任や長期在任を禁じることとした[4]
国内統治

即位から暫くは長姉の夫クラウディウス・ポンペイアヌス、妻の父ガイウス・ブルトゥス・プラセネエス、首都長官アウフィディウス・ウィクトリヌス、近衛隊長セクストゥス・ペレンニスら重臣と協力して統治を行っていたが、次第に貴族達の堕落した生活に毒されていった。特にペレンニスは優秀な軍人で皇帝をよく補佐したが、同時に堕落した文化を教え込んだ奸臣の一人でもあり、有力貴族の財産を没収するなどの問題行動を起こしていた[5]。若き日に宮殿の退廃に葛藤した過去を持つ父帝は「若者は欲望の前に容易に堕落させられる」との警句を残したが[6]、まさに自らの子がその言葉通りとなった。とはいえこの時点でコンモドゥスの治世はそれほどに失点のあるものではなく、私生活でも父に教えられた自らを律する習慣がまだ生きていた[5]

建築面でも元々神殿に近い立場であったためか父親を弔うアウレリウス神殿など複数の礼拝所を各地に建設させ、建設者や時期に関する碑銘が削られているマルクス・アウレリウスの記念柱もコンモドゥスによる建設ではないかとする論者もいる[7]。また治安面では軍の脱走兵がゲルマニアやガリアで治安を乱していることが社会問題となっていたが、この問題に徹底した対処を行った[8]。コンモドゥスの治世が大きく狂い始めるのは家庭内の不和によるところが大きかった。
暗殺未遂事件詳細は「ルキッラ(英語版)」を参照「軍神マルスと女神ウェヌス」(ルーヴル美術館
この立像における女神ウェヌスがルキッラ(英語版)を模して作ったものと言われている。

コンモドゥスの父と母は30年の結婚生活(145年から175年)で合計14人の子供を儲けていた(147年から170年の23年の間に子女を儲けた。7男6女は性別は判明しているが、158年以前に亡くなった子供の性別が不明な為、「7男7女」なのか「8男6女」かは断定が出来ない)。その内、父母の死後(182年時点)も記録中で存命だったのは、男子はコンモドゥスのみで、女子は次女ルキッラ、四女ファディッラ、五女コルニフィキア・ファウスティナ、六女ウィビア・アウレリア・サビナの4人でコンドゥスから見れば3人の姉(ルキッラ、ファディッラ、コルニフィキア・ファウスティナ)と1人の妹(ウィビア・アウレリア・サビナ)がいたが、それぞれが大貴族の妻として政略結婚を行って王朝を支えていた(因みに長女アンニア・アウレリア・ガレリア・ファウスティナは147年11月30日に父母の長女にして長子で、元老院議員グナエウス・クラウディウス・セウェルスと結婚してグナエウス・クラウディウス・セウェルス(163年 - 218年。西暦200年に執政官叙任)を生んだが、2年後(165年頃)に18歳で病没している)。その中でも最年長の次女ルキッラは野心高く、また父の共同皇帝だった前夫ルキウス・ウェルスの死によってアウグスタの称号を与えられ、皇帝たる弟にすら一目置かれていた[5]。彼女は自らの後夫クラウディス・ポンペイウスを弟の側近にしようとしたが、コンモドゥスは年の近い妻のクリスピナの意見を聞き、妻の親族を重用した。

ある時、劇場を訪れたルキッラに対して、貴族達は后妃であるクリスピナに皇帝の隣席を譲るように促した[5]。姉を隣席させていたのは皇帝の姉に対する配慮であったが、習慣から言えば妻を隣に置くのが儀礼であったからである。これに屈辱を感じたルキッラは自らの地位を不安に思い、弟の暗殺と帝位簒奪を計画する[5]。帝位に推されたポンペイウス自身は妻をむしろ説得したとされるが、ルキッラは自らの愛人であった従兄弟のマルクス・ウムディウスとクラウディウス・アッピウスに命じて、劇場を訪れたコンモドゥスを暗殺しようとした(182年)[2]


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