コンパクトディスク
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1971年6月、ソニー創業者の井深大に誘われてソニーに入社した中島平太郎[6][注 2]は、1973年にデジタルオーディオの開発を始め、1974年にソニー初のPCM音源を用いた録音機である「X-12DTC」を開発した[7]。1974年のオーディオフェアに参考出品し、評価してくれる専門家もいたが、発売には至らなかった[7]。1976年にはデジタルオーディオの開発に加わった土井利忠らとともに、前年に発売されたベータマックスを用いたデジタル音声の記録・再生機器である「PCM-1」を開発した[7]

一方「PCM-1」の開発とは別に、ソニーはフィリップスが開発した光学方式のビデオディスク(のちのレーザーディスク)の商品化に取り組んでおり、ディスクを使ったデジタルオーディオの録音・再生をする取り組みも始まっていた[7]。土井は「PCM-1」の試作機を用いてビデオディスクにデジタル音声を記録してみるが、使用に堪えない結果となった[7]。その結果「PCM-1」をビデオディスクのアダプターとすることは断念し、ベータマックス用のアダプターとしてオーディオフェアに出品すると、人だかりができるほど好評であり、「PCM-1」は1977年9月に商品化された[7]。PCM機器については「PCMプロセッサー」を参照

また土井はディスクに関してはビデオ信号の形式を借りないで、デジタルオーディオ信号を直接光ディスクに記録することを決め、このころに誤り訂正符号を仕様に盛り込むことを決めた[7]。こうして1977年のオーディオフェアに出品にすると、他社はビデオ信号を用いた形式を利用しているのにソニーだけは別方式をやっていると社内外から言われ、それに対して土井は「ビデオ信号で記録すると演奏時間は30分だけど、直接記録を使えば13時間20分記録できる」という内容の講演をするが、それを聞いた大賀典雄[注 3]は「そんな長時間もの音楽の入ったソフトをつくるのは、コストがかかり過ぎてビジネスとして成り立たない」と苦言を呈した[7]

1978年6月、大賀はフィリップスを訪れると、フィリップスの幹部ルー・オッテンスは大賀にオーディオ専用の光ディスクを見せた。「オーディオ・ロング・プレイ」(ALP)とフィリップスでは呼ばれており、のちのレーザーディスクとなる光ディスクを開発している時に副産物として開発されたものだった[8]。フィリップスからディスクの仕様を聞いた大賀はレコードからの置き換えができるものとの将来性を感じ、フィリップスと光ディスクの共同開発をすることを決断した[8]。そしてデジタルオーディオディスクの規格統一の話し合いのために内外29社からなる「DAD(Digital Audio Disc)懇談会」に向けて両社で規格をまとめて提案することになった[8]
開発経緯

1979年8月末から共同開発が始まり、ソニー側の技術交渉に当たったのは技術研究所の中島、土井、ディスク開発部の宮岡千里[注 4]らだった[8]

仕様について特にフィリップスとの意見が対立したのが、量子化ビット数[注 5]、ディスクのサイズ、記録時間だった[8]

量子化ビット数に関してはフィリップスは14ビットを主張したが、土井は21世紀になっても通用するためには16ビットが必要であると主張し、ソニー側の意見が採用された[8]

ディスクのサイズに関してはフィリップスは11.5 cmを主張したが、これはコンパクトカセットの対角線の長さと同じで、 ドイツ工業規格に適合し、ヨーロッパ市場でのカー・オーディオとしての将来性を見込んでのことだった[8]。一方でソニーは12 cmを主張したが、これは音楽家でもある大賀が「オペラ一幕分、あるいはベートーヴェン第九が収まる収録時間がユーザーから見て合理性がある」と判断したことによる[8]。この大賀の発言の大きな要因となったのが、かつて「PCM-1」から流れる自身の演奏の音の良さを実感した[11]、指揮者のカラヤンである[12]。開発当時、大賀は親交のあったカラヤンに、11.5 cm(60分)と12 cm(74分)との二つの規格で二者択一の段階に来ていることを話すと、カラヤンは「ベートーヴェンの交響曲第9番が1枚に収まったほうがいい」と提言した[注 6]。それに対してフィリップスは「12 cmでは上着のポケットにも入らない」と反論したが、日・米・欧の上着のポケットのサイズを調べた結果、12 cmでも問題ないことが分かり、ソニーの主張が採用された[8]

こうして規格が定まった1980年6月、DAD懇談会ではソニー・フィリップスが提案した「光学式」、ドイツのテレフンケン提案の「機械式」、日本ビクター提案の「静電式」という3方式の評価が始まり、評価では光学式と静電式に集約された[8]。ソニーはDAD懇談会への提案の一方でCD再生第1号機の商品化にも取り組み[8]、1982年10月の商品化に向けて、大賀はCDを世界の標準規格にするため、フィリップスとともに世界中のソフトウェアメーカー、レコード会社、音楽団体の会合に出向き、内容の説明とCDの演奏を繰り返し行った[13]。しかし「LPレコードが世界のスタンダードであり、その音に満足しているから余計なことをしないでくれ」とレコード関係者の反発は強かった[13]。アメリカCBSとの合弁会社CBS・ソニーレコード(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)の幹部もCDの生産に否定的であったが、大賀が説得した結果、CBS・ソニー単独資金で静岡の大井川にCDソフト工場を建設する許可を得た[13]

生産を始めるとCDの反りの問題が浮上したが、当時新素材であったポリカーボネートの使用を1982年8月に決定し、CD発売開始半年前の同年9月半ばにプレス生産が軌道に乗った[13]
黎明期

1982年8月31日、ソニー、CBS・ソニー、フィリップス、ポリグラム[注 7]の4社共同のCDシステム発表会が東京大手町の経団連会館で開かれ、当日の夕方から夜のテレビニュースと翌日の朝刊で一斉に報じられた[13]

同年10月1日、ソニーからは再生第1号機「CDP-101」およびCBS・ソニーからは世界初のCDソフト50タイトルが発売され、CDソフトの生産第1号はビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」となった[13]。50タイトルの内訳はクラシックだけでなく、ポップスやロック、歌謡曲まで揃っており、その後年末までに100タイトル余りのソフトが発売された[13]

こうして1980年6月のDAD懇談会では日本ビクターの静電式も評価として残されていたが、CDが発売されたころには、ほとんどの会社がソニー・フィリップスによるCDシステムの採用を発表し、CDが事実上の世界統一規格となった[13]

1983年に入ると、他社からも次々にCDプレーヤーが発売され、CDソフトも同年末には約1000タイトルが店頭に並んだ[13]


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