コンパクトディスク
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こうして1977年のオーディオフェアに出品にすると、他社はビデオ信号を用いた形式を利用しているのにソニーだけは別方式をやっていると社内外から言われ、それに対して土井は「ビデオ信号で記録すると演奏時間は30分だけど、直接記録を使えば13時間20分記録できる」という内容の講演をするが、それを聞いた大賀典雄[注 3]は「そんな長時間もの音楽の入ったソフトをつくるのは、コストがかかり過ぎてビジネスとして成り立たない」と苦言を呈した[7]

1978年6月、大賀はフィリップスを訪れると、フィリップスの幹部ルー・オッテンスは大賀にオーディオ専用の光ディスクを見せた。「オーディオ・ロング・プレイ」(ALP)とフィリップスでは呼ばれており、のちのレーザーディスクとなる光ディスクを開発している時に副産物として開発されたものだった[8]。フィリップスからディスクの仕様を聞いた大賀はレコードからの置き換えができるものとの将来性を感じ、フィリップスと光ディスクの共同開発をすることを決断した[8]。そしてデジタルオーディオディスクの規格統一の話し合いのために内外29社からなる「DAD(Digital Audio Disc)懇談会」に向けて両社で規格をまとめて提案することになった[8]
開発経緯

1979年8月末から共同開発が始まり、ソニー側の技術交渉に当たったのは技術研究所の中島、土井、ディスク開発部の宮岡千里[注 4]らだった[8]

仕様について特にフィリップスとの意見が対立したのが、量子化ビット数[注 5]、ディスクのサイズ、記録時間だった[8]

量子化ビット数に関してはフィリップスは14ビットを主張したが、土井は21世紀になっても通用するためには16ビットが必要であると主張し、ソニー側の意見が採用された[8]

ディスクのサイズに関してはフィリップスは11.5 cmを主張したが、これはコンパクトカセットの対角線の長さと同じで、 ドイツ工業規格に適合し、ヨーロッパ市場でのカー・オーディオとしての将来性を見込んでのことだった[8]。一方でソニーは12 cmを主張したが、これは音楽家でもある大賀が「オペラ一幕分、あるいはベートーヴェン第九が収まる収録時間がユーザーから見て合理性がある」と判断したことによる[8]。この大賀の発言の大きな要因となったのが、かつて「PCM-1」から流れる自身の演奏の音の良さを実感した[11]、指揮者のカラヤンである[12]。開発当時、大賀は親交のあったカラヤンに、11.5 cm(60分)と12 cm(74分)との二つの規格で二者択一の段階に来ていることを話すと、カラヤンは「ベートーヴェンの交響曲第9番が1枚に収まったほうがいい」と提言した[注 6]。それに対してフィリップスは「12 cmでは上着のポケットにも入らない」と反論したが、日・米・欧の上着のポケットのサイズを調べた結果、12 cmでも問題ないことが分かり、ソニーの主張が採用された[8]

こうして規格が定まった1980年6月、DAD懇談会ではソニー・フィリップスが提案した「光学式」、ドイツのテレフンケン提案の「機械式」、日本ビクター提案の「静電式」という3方式の評価が始まり、評価では光学式と静電式に集約された[8]。ソニーはDAD懇談会への提案の一方でCD再生第1号機の商品化にも取り組み[8]、1982年10月の商品化に向けて、大賀はCDを世界の標準規格にするため、フィリップスとともに世界中のソフトウェアメーカー、レコード会社、音楽団体の会合に出向き、内容の説明とCDの演奏を繰り返し行った[13]。しかし「LPレコードが世界のスタンダードであり、その音に満足しているから余計なことをしないでくれ」とレコード関係者の反発は強かった[13]。アメリカCBSとの合弁会社CBS・ソニーレコード(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)の幹部もCDの生産に否定的であったが、大賀が説得した結果、CBS・ソニー単独資金で静岡の大井川にCDソフト工場を建設する許可を得た[13]

生産を始めるとCDの反りの問題が浮上したが、当時新素材であったポリカーボネートの使用を1982年8月に決定し、CD発売開始半年前の同年9月半ばにプレス生産が軌道に乗った[13]
黎明期

1982年8月31日、ソニー、CBS・ソニー、フィリップス、ポリグラム[注 7]の4社共同のCDシステム発表会が東京大手町の経団連会館で開かれ、当日の夕方から夜のテレビニュースと翌日の朝刊で一斉に報じられた[13]

同年10月1日、ソニーからは再生第1号機「CDP-101」およびCBS・ソニーからは世界初のCDソフト50タイトルが発売され、CDソフトの生産第1号はビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」となった[13]。50タイトルの内訳はクラシックだけでなく、ポップスやロック、歌謡曲まで揃っており、その後年末までに100タイトル余りのソフトが発売された[13]

こうして1980年6月のDAD懇談会では日本ビクターの静電式も評価として残されていたが、CDが発売されたころには、ほとんどの会社がソニー・フィリップスによるCDシステムの採用を発表し、CDが事実上の世界統一規格となった[13]

1983年に入ると、他社からも次々にCDプレーヤーが発売され、CDソフトも同年末には約1000タイトルが店頭に並んだ[13]。1984年11月になるとソニーは「CDP-101」の機能と変わらないまま本体サイズをCDジャケット4枚分の厚さにし、価格も49,800円に抑えたポータブルCDプレーヤー「D-50」を発売、これにより各社のCDプレーヤーの価格も下がり、業界全体のCDビジネスも本格的に立ち上がっていった[13]
普及期

デジタル音声に関しては当初、特にアナログオーディオ技術を駆使する録音スタジオのエンジニアたちによって、「アナログタイプの機器より1けた高い」「音質が硬く、音楽的でない」と評価された[14]。その中でもアメリカのボーカリストのスティービー・ワンダーやジャズピアニストのハービー・ハンコックなどがデジタル音声を支持したことで、否定的だったミュージシャンらもデジタルオーディオに肯定的になっていった[14]。そうしてクラシックの新譜はほとんどすべてがデジタル化され、マルチトラック録音が必要なポピュラー音楽も、次々とデジタル録音されるようになった[14]

CDソフトの日本国内生産枚数も1984年末頃は、 LPレコードと比べて10分の1程度の生産枚数だったが、2年後の1986年には年間4500万枚に達して、LPレコードを逆転した[14]。そして1988年前後には、LPレコード最盛期の生産量の1億枚を超し、1992年には3億枚を突破した[14]。中島はCDの生産枚数は「1989年ごろにLPレコードを追い越して、将来的には2億枚ぐらいにはなるだろう」と予測していたが、想定よりも早く、かつ想定以上の生産枚数に達する結果となった[14]

その後CDには音声・映像・文字用の「CD-ROM」(1985年規格化)、映像・音声両用の「ビデオCD」(1993年規格化)など、様々な規格が策定され「CDファミリー」を形成していった[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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